情報社会で長年トップに君臨し続けた新聞の歴史に迫る!起源から明治まで【前編】:2ページ目
大新聞と小新聞
明治初期に誕生した新聞には「大新聞」と「小新聞」の2種類がありました。
「大新聞」は政治評論を中心とした言論新聞で、士族や官僚などのインテリ層に向けた漢文調の活字で販売。 内容は「政府に肩入れした内容を書く新聞」と「政府を徹底的に批判する新聞」があったと言います。
「小新聞」は世間が注目する事件や現代で言う夜の街・花柳界のウワサなどを記事にして、主婦や一般大衆が読みやすいようにフリガナや挿絵を入れて低価格で販売されました。
1880年代になると政府の弾圧によって言論新聞の規制が敷かれ、経営に行き詰まった大新聞は運営を継続させるため、庶民の関心が高い俗事ネタを中心に取り扱うように。大阪でも、「朝日新聞」などの小新聞社が地域に密着した俗事の報道をスタートさせ、大新聞と小新聞は次第に統合されたのです。
東京の小新聞の闇
1874年1月17日に政治権力を官僚らが独占していること批判する「民撰議院設立建白書」が提出され、国民の自由民権運動への意識が高まり、政論新聞が次々に誕生しました。
このとき、もともと東京で出版されていた多くの小新聞も政党から発行されるようになったのです。
次第に東京の小新聞は政党新聞化し、政争の武器として利用されるように。
各政党がそれぞれの思想のもと書いた新聞を発行するようになったことで、独裁的な政治を行う政府のやり方に反感を抱く国民も現れます。
国民の反感を恐れた政府は、新聞による批判言論を抑えるために「讒謗律」をはじめ、新聞紙条例や出版条例、集会条例、保安条例を制定することで、新聞出版を厳重に取り締まりました。この影響もあって自由民権運動下では数多くの新聞記者が弾圧され、投獄されるなどの被害が相次いだのです。
後編では、明治後期に起こった戦争やその後の政治に巻き込まれていく新聞の歴史を紹介します。