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朝廷や幕府との関係を良好に保った奥州藤原氏最盛期の王「藤原秀衡」ってどんな人?

朝廷や幕府との関係を良好に保った奥州藤原氏最盛期の王「藤原秀衡」ってどんな人?:2ページ目

禍根を残さないように手を打つ

月日が過ぎ、頼朝と義経の関係が悪化すると、追われた義経が秀衡を頼ってきます。

秀衡は頼朝との関係悪化を覚悟したうえで義経を再度受け入れました。そして義経が平泉に入ったわずか2か月後、秀衡は死去してしまいます。その後の経過についてはご存じの通りです。

ところで、頼朝の圧力も受け流していた秀衡でしたが、彼にも一つ大きな懸念がありました。側室との子である長男・国衡と、正室との子である次男・泰衡との仲が悪かったのです。

そこで秀衡は、国衡と自らの正室である藤原基成の娘と婚姻を結ばせます。

そうすることで、国衡と泰衡の間に義理の親子関係を成立させて争いを回避したのです。また遺言では、義経を主君とし三人で結束して頼朝の攻撃に備えるよう言い遺したといいます。

自分の死後も、禍根を残さないように手を打っておくのは、統治者の鑑と言えるでしょう。

ところで、実は秀衡はミイラとなって中尊寺金色堂にその姿が残っています。

60歳~70歳代であったことや、身長は164㎝ほどで肥満体型であったこと、骨髄炎性脊椎炎によって命を落としたのではないかという死因についても詳しく判明しています。CGデータで顔の復元もされており、鼻は高く鼻筋が通っていたようです。

藤原秀衡は堅実な政治を行い奥州を発展させた一方で、彼がいなければ鎌倉幕府が開かれることはなかったかもしれないという、日本の歴史においても大変重要な人物でした。s

 

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