教養ある名将なれど悪役扱い。武将・梶原景時の不遇な最期と後世の評価【鎌倉殿の13人】:2ページ目
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恨みを買いやすかった?
義経と何度も対立して不満を募らせた景時は、義経を陥れようと頼朝に讒言したといわれています。
実は景時に心の中では賛同する者も多かったのではないか、とも考えられていますが、いずれにしても義経は数々の戦で見事に勝利を収めています。結果的に景時の忠告は余計なものになってしまったという見方が強いようです。
また景時は職務上、反感や恨みを買いやすい立場にいました。
彼の同僚や部下である御家人たちも鬱憤がたまっていたのか、頼朝の死後、景時は多数の御家人の連判状によって幕府を追放されてしまいます。一族の多くが殺され、景時も自害しました。
このような最期を迎えたことや、義経との対立などの事実から、景時は数百年にわたり悪役として語り継がれていったと考えられています。しかし最新の研究やメディア作品では、悪役としての景時像は見直されつつあるようです。
実際には実務能力の高い教養人であり、源頼朝からも信頼されていた梶原景時の実像は、単なる「悪役」の枠に収まるものではなかったのかも知れません。
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