たった一日の執権職…鎌倉幕府最後の執権・北条貞将が見せた忠義の心意気:2ページ目
たった一日の執権職
「……最後のご挨拶に参りました」
残った兵はわずかに800余、自身も7か所の傷を負った貞将は、高時が陣を構える東勝寺にやって来ます。
「多年の功績により、そなたを両探題職(りょうたんだいしき)並びに相模守(さがみのかみ)に任ずる」
……入道不斜感謝して、軈て両探題職に可被居御教書を被成、相摸守にぞ被移ける。
※『太平記』巻第十「大仏貞直並金沢貞将討死事」
両探題職とは執権および連署(れんしょ。執権に署名を連ねる。副執権)を指し、この時点で連署には北条茂時(もちとき)がいるため、5月18日の守時討死で空席となっていた執権と解釈可能です(諸説あり)。
また、相模守は執権に就任した者の多くが任官しており、ここに貞将は鎌倉幕府の第17代(最後の)執権となったのでした。
……もちろん、滅んでしまえばすべてムダなのかも知れません。それでも死してなお朽ちぬ名を求めてこそ武士の本懐。
「多年の所望、氏族の規摸とする職なれば、今は冥途の思出にもなれかし」
【意訳】永年の望みであり、一族の名誉(※父の北条貞顕も執権でした)である役職をいただき、冥途のよき土産となりましょう。
※『太平記』巻第十「大仏貞直並金沢貞将討死事」
高時から恭しく御教書(みぎょうしょ)を受け取ると、貞将は筆をとってその裏面にスラスラと文字を大書します。
「棄我百年命報公一日恩」
我が百年の命を棄て、公(きみ。主君)が一日の恩に報ぜん……ただ百年を生き延びるより、あなたが任じて下さった執権としての一日に、残った命すべてを燃やし尽くしましょう。
貞将は御教書を鎧の胴にしまい込むと、最期の戦いに出撃していきました。その心意気を前に、高時はじめ諸将はもちろん、敵味方を問わず感銘を受けたということです。
終わりに
かくして元弘3年(1333年)5月22日、鎌倉幕府は滅亡。残された高時ら一族も東勝寺に自害して果てたのでした。
鎌倉幕府の執権17名のうち、最も長く務めたのは第2代・北条義時の18年11カ月。それに対して最短は今回の北条貞将、たった1日。
ちなみに長い方の第2位は第3代・北条泰時(やすとき)の18年ちょうど、短い方は貞将の父である第15代・北条貞顕(さだあき)の11日間。
貞顕は執権就任に反対する声が大きく、暗殺の風聞まで立ったため辞職に追い込まれており、貞将の執権就任は金沢流最後の意地を見せたと言えるでしょうか。
貞顕は東勝寺で自刃、貞将の長男・北条忠時(ただとき)は父と共に自刃。次男の北条淳時(あつとき)は再起を期して鎌倉を脱出、伊勢国へ潜伏したものの、6月3日に討たれてしまいました。
人生の価値はその長さよりも密度。執権をはじめとする公職もまた、ただ長く務めるよりもいかに務めたかが大切なのではないでしょうか(もちろん、真面目で優秀な方に長く務めてもらうに越したことはありませんが)。
執権を務めた貞将最期の1日は、まさに百年の命を棄てるに値する輝きを放ったことでしょう。
※参考文献:
- 永井晋『北条高時と金沢貞顕 やさしさがもたらした鎌倉幕府滅亡』山川出版社、2009年10月
- 細川重男 編『鎌倉将軍 執権 連署列伝』吉川弘文館、2015年11月