【鎌倉殿の13人】名演技が話題!康すおん演じる老将・佐々木秀義、実際はどんな生涯だったのか?:2ページ目
故郷を追われた秀義一家は、奥州藤原氏を頼るため東国へ流れていく道中、相模国(現:神奈川県)の豪族・渋谷庄司重国(しぶや しょうじしげくに)と意気投合。
「まぁ、ゆっくりしていけよ」とのお言葉に甘え、ちょっとゆっくり20年。その間に重国の娘を妻に迎え、佐々木源五郎義清(げんごろうよしきよ)らの子供をもうけています。
ちなみにこの重国は平家方の人物ですが、そこに匿われている秀義の息子たちは伊豆国に流された頼朝に仕えていました。
20年もお世話になっておきながら、息子たちを謀叛人のお世話に派遣するこの度胸。ただ者ではありませんね。
そして時は流れて治承4年(1180年)、頼朝が平氏討伐の兵を挙げるとの噂を聞いた大庭景親(演:國村隼)から
「佐殿の謀叛計画、都にバレてるぞ。まだ情報は錯綜しているようだから、とりあえずその場はごまかしておいたが、お前の息子たちに『バカな事はするな』って伝えておけよ」
と釘を刺されます。
さぁ大変だ……と四兄弟を頼朝に味方させ、五男の義清は景親の娘婿になっていたことから、渋谷重国と共に平家方へ参戦させました。
ちなみに自身は『吾妻鏡』に名前がないため、戦場には出ていないようです。流石に69歳の老齢では足手まといになると思ったのでしょうか。
エピローグ
その後、鎌倉入りした頼朝によって旧領の佐々木荘を安堵され、現地で余生を過ごします。
しかし元暦元年(1184年)に伊勢・伊賀の両国(現:三重県)で平氏の残党が蜂起した際、これを鎮圧に出陣(三日平氏の乱)。
最終的には鎮圧したものの被害も大きく、秀義は7月19日に討死してしまいます。享年73歳でした。
叔父の死を惜しんだ頼朝はその遺勲を称えるため、死後に近江権守の官職を追贈しています。
父の死を乗り越えて、息子たちはますます活躍するのですが、それはまた別のお話し。
※参考文献:
- 今井尭ら編『日本史総覧 コンパクト版』新人物往来社、1987年7月
- 川合康『院政期武士社会と鎌倉幕府』吉川弘文館、2019年1月
画像出典: NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」