民のためなら祟りなど…神も巫女も恐れずタブーに挑んだ平安貴族・藤原高房:2ページ目
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「よし、それが本当ならば私が祟りを受けてやろう。この命一つでみんなが助かるなら安いもの……全責任は私がとるから、すぐに渠を直すのだ」
「「「ははあ……」」」
かくして渠は修理され、これと言った祟りもなく人々は農作業を再開できたのでした。
またある時、今度は席田郡(むしろだのこおり)に怪しい巫女が教団?を率いて、年貢を拒否するどころか、勝手に人々から税を取り立てているとのこと。
「何でそんなことを許しておくんだ!」
「すみません。でも、ヤツは不思議な妖術を使って私たちを祟り殺すと言うので、恐ろしくて……」
まったく、どいつもコイツも祟りと言えば逆らえないと調子に乗りおって……高房はただ一人で巫女らのアジトへ殴り込んで張り倒し、縛り上げたのでした。
「神の名を騙って私腹を肥やす不届き者め……だが、お前ら(部下たち)もお前らだ。役人の端くれとして、天下公益に供する誇りを胸にしておれば、何の祟りが怖いものか!」
「「「はい、すみませんでした……」」」
終わりに
とまぁ、そんな具合で、その後も備後国(現:広島県東部)、肥後国(現:熊本県)、越前国(現:福井県東部)の国司を歴任、地方行政に成果を上げたのでした。
しかし、世渡りは下手だったのか出世は遅く、最終的な官位は正五位下にとどまり、仁寿2年(852年)2月25日、背中に生じた悪性腫瘍によって58歳の生涯に幕を下ろします。
誰かがやらねばならぬなら、自分が進んでそれをやる……そういう損得抜きで天下公益に供する日本人の姿を、現代の私たちも見習いたいものですね。
※参考文献:
- 黒板勝美『新訂増補 國史大系 第3巻 日本後紀 續日本後紀 日本文徳天皇實録』吉川弘文館、2007年10月
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