令和4年(2022年)放送予定の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で、八嶋智人さんが演じる甲斐源氏の棟梁・武田信義(たけだ のぶよし)。
後世「甲斐の虎」と恐れられた戦国大名・武田信玄(しんげん)公の祖先としても知られるように、武田と言えば甲斐国(現:山梨県)を代表する偉人として有名です。
しかし、意外なことに武田氏は最初から甲斐国にいたわけではなく、また武田の苗字は他国の地名に由来します。
今回はそんな甲斐武田氏のルーツを紹介。果たして彼らは、どこから来たのでしょうか。
武田のルーツは茨城県の地名から
武田家のルーツは信義の祖父である源義清(みなもとの よしきよ)に始まります。父・源新羅三郎義光(しんらさぶろう よしみつ)から常陸国那珂郡武田郷(現:茨城県ひたちなか市武田)を譲られた義清は、武田の苗字を名乗り始めました(異説あり)。
天永元年(1110年)には嫡男の源清光(きよみつ)、さらに大治3年(1128年)には信義(龍光丸、勝千代)も生まれ、この地で成長しますが、大治5年(1130年)に在庁官人の大掾盛幹(だいじょう もりもと)と敵対。
抗争に敗れた義清・清光父子は地域の平和を乱す者として朝廷より勅勘(ちょっかん。天皇陛下のお怒り)をこうむり、天承元年(1131年)に甲斐国市川荘(現:山梨県西矢代郡)へ配流とされてしまいます(もちろん幼い信義も連れられます)。
しかし転んでもタダでは起きず、甲斐国でも勢力を築いた義清は長承2年(1133年)ごろ市川荘司に就任。文字通り荘園の司ですが、ここでは力づくで「ボス」の座に収まったと見るのが妥当でしょう。
常陸国で地域の平和を乱して怒られたのは抗争に敗れたからであり、地元の荒くれ者たちを従え、秩序を守ってくれるのであれば、朝廷としても文句はありません(or言えません)。