裏切り者?名将?築城の天才・藤堂高虎の江戸城縄張りと、石垣に見る驚きの築城術:2ページ目
藤堂高虎の築城センスが反映された江戸城
徳川家康が小田原征伐の功として関八州を与えられ江戸に拠点を移しました。当時の江戸は武蔵国のへき地と言えるような場所…葦が繫る湿地帯であったと言われます。
太田道灌が関東統治の拠点として千代田城(江戸城前身)を築城したのは100年以上も前のことで、城はだいぶ風化してしまった状態であったと想像できます。このような場所に「天下の城」を築くのですから、壮大なプロジェクトであったことでしょう。
徳川家康は江戸城の屋台骨とも言える外堀工事と石垣普請を藤堂高虎に命じました。
江戸城外堀は城を中心に「の」の字型に伸びています。その総延長は約16km、現在の千代田区と中央区に相当する範囲を網羅していました。この大規模な外堀工事は関ケ原の合戦後に始められ、家光時代の寛永期に完成を見ることになるので、約30~40年間に渡って行われた大工事であったことがわかります。
外堀の範囲は大名屋敷、武家屋敷、町人街を全て包括しており防御性に富んでいます。また、螺旋状に伸びている外堀から枝分かれするような形で水路が張り巡らされており、物資輸送も効率的に対応できるようになっています。
軍事機能と都市機能を併せ持った縄張りこそ江戸が発展する大きな要素であり、藤堂高虎の築城センスが反映されています。