役者が英語を話すことも!西洋との融合を図った明治時代の歌舞伎を錦絵で見る:2ページ目
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活歴物と九代目市川團十郎
新政府の「狂言綺語(創作話)をやめる」という要求に応じて作られたのが活歴物と呼ばれる一連の作品群で、役者として活歴物の芝居の中心となったのが九代目市川團十郎(1838〜1903)です。
時代物は史実に忠実な内容にしたいと考えていた彼は、これを機会に歌舞伎狂言作者の河竹黙阿弥に依嘱し、内容や演出扮装ともに史実に即した新史劇を執筆させました。
団十郎自身も学術関係者や文化人と組んで時代考証を重視した演劇に取り組みます。こうした活動が、やがて活歴物という一連の演目を世に出すことになりました。
こちらは創作ですが河竹黙阿弥の歌舞伎狂言で、藤橋のだんまり、三すくみの見得などがよく知られています。
明治の写楽!歌舞伎役者絵の達人、豊原国周
明治時代、錦絵が徐々に衰退していく中、役者絵を描き続けた絵師・豊原国周。
人形町の具足屋嘉兵衛を版元に、彫工・太田升吉による役者似顔大首絵を多数制作し、このシリーズで「役者絵の国周」として知られるようになりました。
後に浮世絵や西洋版画の研究家・小島烏水により「明治の写楽」と称せられます。
国周の門人だった楊洲周延も、鮮やかで迫力のある役者絵をたくさん手がけています。
このように、3枚続の画面に一人立ちの半身役者絵を描く大胆な構図は当時の人々の目を引きました。
最後に
このように見ていると、明治期の人々にとって歌舞伎や錦絵が身近に親しまれていた様子や、どうしたらより多くの人に楽しんでもらえるか改良を続けてきた様子がわかります。
こうした先人たちの努力があって歌舞伎が今日にも続いていると考えると、嬉しい限りですね。
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