討幕への口火に!黒幕・西郷隆盛が仕組んだ薩摩屋敷焼打ち事件とは【大政奉還〜王政復古の大号令編】

高野晃彰

1867年10月15日、徳川慶喜は政権を朝廷に返上する大政奉還を行った。

だが、その後も、慶喜は400万石を有する大大名として、公然たる政治執行力をもって君臨していた。

討幕派にとって、この状況を覆すためには、慶喜および旧幕府の武力討伐しかなかったが、その機会はなかなか訪れなかった。

しかし、1868年1月3日、旧幕府側の暴発から端を発したとされる鳥羽・伏見の戦いが勃発。江戸幕府は、その後の戊辰戦争を経て完全に歴史の舞台から姿を消していった。

旧幕府側の暴発を誘ったのは、江戸において前年年末に起きた薩摩藩邸焼打ち事件であった。そして、その黒幕は西郷隆盛だった。

第1回は、薩摩藩邸焼打ち事件が起きるにいたった、幕末京都における政治状況のうち、大政奉還から王政復古の大号令についてお話ししよう。

西郷を上機嫌にさせた薩摩藩邸焼打ち事件

1868(慶應4)年1月4日、うす汚れた風体の武士たちが、京都二本松の薩摩藩邸へ駆け込み、西郷隆盛に面会を求めた

武士たちとは、薩摩藩陪臣の伊牟田尚平(いむたしょうへい)らだった。彼らは、年末の江戸で薩摩藩邸を幕府に焼打ちされ、品川沖から薩摩藩軍艦で大坂に脱出してきたのだ。

そんな伊牟田たちに、西郷はことのほか上機嫌に対応した。

諸君らの働きがあってこそ、この度の戦は開戦できたのだ。愉快、愉快!

戦とは、この前日に勃発した鳥羽伏見の戦いである。そして、西郷がいう諸君らの働きこそが「薩摩藩邸焼打ち事件」だった。

鳥羽伏見の戦いを誘発し、討幕への口火になったとされる「薩摩藩邸焼打ち事件」。武力討幕のために西郷隆盛が仕組んだといわれる事件が起きるその前夜について、先ずは触れていこう。

討幕の密勅と大政奉還

 

1867(慶應3)年10月14日、江戸幕府が突然、260年の歴史に幕を閉じた。第15代将軍徳川慶喜が政権を朝廷に返上、世に名高い大政奉還である。

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実は、大政奉還が行われた10月14日前後、討幕を画策する反幕府勢力側にも大きな動きがあった。いわゆる「討幕の密勅」である。

密勅の首謀者は公家の岩倉具視だった。前年の第二次長州征伐に失敗した幕府など、もはや恐れぬに足りぬとの判断から、謹慎・蟄居中にもかかわらず、武力討幕に踏み込んだのである。

岩倉は、討幕派の先鋒を走る薩長両藩に働きかけた。是が非でも徳川慶喜を血祭りにあげたいと執念を燃やす西郷隆盛や大久保利通らは、これ幸いと密勅を受けたのである。

ところが、討幕派にとって思いもよらないことが起こった。「大政奉還」である。「討幕の密勅」と同日に、まるで討幕派の動きを読んでいたように徳川慶喜に政権返上という先手を打たれたのである。

そして、翌10月15日。朝廷はいとも簡単に、「大政奉還を受理してしまった。岩倉らは慌てて密勅をもみ消したのだった。

3ページ目 維新政府の焦りが王政復古の大号令につながった

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