明智光秀の敗死にあった最大の誤算。光秀の誘いを断った2人の戦国大名【後編】:2ページ目
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光秀の誤算③ 羽柴秀吉の着陣
秀吉が信長の横死を知ったのは、備中での毛利攻めの際中であり、6月3日から4日未明のことだったと考えられている。素早く帰陣を決断した秀吉は、7日の夕方には姫路城へ入り、11日の夕方には尼崎に着陣した。
順慶は10日の時点で秀吉への恭順を示しており、秀吉の動向を事前に察知していたとされる。想定より早い秀吉軍の着陣は、反光秀軍を増加させることにも繋がった。
山﨑の戦いとその後
光秀は十分な体制を整えられないまま山﨑(京都と大阪の県境)で秀吉との戦に突入。戦に敗れ、敗走途中に自害したとされる。
光秀最大の誤算は、親戚関係にあり与力でもあった藤孝と順慶を味方に引き入れることができなかったことだった。当時の藤孝と順慶はそれぞれ12万石と18万石の大名であり、光秀にとって大きな戦力となり得た。
二人の裏切りの理由ははっきりしないが、結果的に秀吉の天下統一に多大な影響を及ぼすこととなった。
もし、二人が光秀に助力していたなら、その後の歴史は変わっていたかもしれない。
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