流石の「大うつけ」もためらった?若き日の織田信長が「上総守」を名乗らなかった理由とは
戦国時代、織田信長(おだ のぶなが)が「上総介(かずさのすけ)」という官位を名乗っていたことはよく知られていますが、先刻こんな質問がありました。
「何で上総『介』なの?大岡越前(おおおか えちぜん)みたいに、国司の官位は『守(かみ)』じゃないの?」
介とは国司を補佐(介助)する役で、名目上はその国におけるナンバー2の地位となります。せっかく自称するなら名目上でもナンバー1(守)の方がいいでしょうに、どういう理由があるのでしょうか。
名乗っちゃいけない「上総守」、その理由は?
実は、信長も「せっかくならナンバー1の方がいい」と考えた時期があったようで、織田家の家督を継承した直後に「上総守」を自称したことがあります。
しかし、それからすぐ「上総介」に訂正。それと言うのも、実は「上総守」という役職は親王(しんのう。天皇陛下の嫡子・嫡孫)にしか許されない慣習があったのです。
それは平安時代、仲野親王(なかのしんのう。桓武天皇の皇子)が上総の国司(太守)となったことに始まり、後に桓武平氏の祖である平高望(たいらの たかもち。桓武天皇の皇孫)が上総介となったことから、上総介は「東国における桓武平氏のトップ」的な称号となりました。
※こういう親王殿下が太守を務めた国を「親王任国(しんのうにんごく)」と言い、他にも上野国(現:群馬県)や常陸国(現:茨城県)がそうでした。
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