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優柔不断で滅亡? 戦国大名・朝倉家最後の当主「朝倉義景」の人物像【中編】

優柔不断で滅亡? 戦国大名・朝倉家最後の当主「朝倉義景」の人物像【中編】

優柔不断エピソード③「信長包囲網の放棄」

1572年から73年。反信長勢力によって包囲網が作られたこの時期は信長を討つ絶好機であった。義景は浅井氏の支援のために挙兵するが、積極的な動きは見せなかった。

翌年、甲斐の「武田信玄」が信長の同盟国である遠江・三河の「徳川家康」を攻め、義景に協力を要請して来るが、義景は信長包囲網のために駐留していた軍と共に越前へ撤退してしまう。

その後も、信玄や石山本願寺の「顕如(けんにょ)」から再三の出順要請を受けるも義景は黙殺している。73年の4月には織田軍に対して大きな脅威であった武田信玄が死去。こうして信長包囲網は瓦解していった。

このように信長を討つチャンスを自ら潰しているように見える義景。次回は優柔不断に見える義景の行動理由について考察する。

【後編へ続く】

 

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