手洗いをしっかりしよう!Japaaan

百姓から一国の大名に!民衆や神様に愛された戦国武将・田中吉政の立身出世を追う【中】

百姓から一国の大名に!民衆や神様に愛された戦国武将・田中吉政の立身出世を追う【中】

五千石の大出世、そして義父との別れ

かくして久兵衛は宮部継潤と共に秀吉の与力として仕えることとなり、天正五1577年には中国地方の覇者・毛利(もうり)氏の攻略に従軍。秀吉の弟・羽柴秀長(はしば ひでなが。この時点では長秀)を補佐して山陰方面の敵に当たり、秀長が留守の時は代理で指揮を任されるほど篤く信頼されました。

数々の武勲によって宮部継潤は天正八1580年、但馬国豊岡城(現:兵庫県豊岡市)を与えられ、2万石の大名となります。

「義父上、此度はまこと祝着至極に存じまする」

「これも偏(ひとえ)に久兵衛の助けあればこそ……これからも、よろしく頼むぞ」

「ははぁ」

そんな天正十1582年6月2日、秀吉の主君である信長が京都で重臣の明智光秀(あけち みつひで)の謀叛に遭って横死してしまいます。

後世に言う「本能寺(ほんのうじ)の変」を知った秀吉は、それまで戦っていた毛利氏と急いで和睦し、仇討ちのため京都へとんぼ返りを始めました。

「久兵衛……急ぎ筑前(秀吉)様の元へ馳せ参ずよう、早馬が参ったぞ!」

これがいわゆる「中国大返し」ですが、久兵衛は宮部継潤と別行動で秀吉に従い、猛スピードで京都を目指します。

「わしは留守番か……久兵衛よ、わしの分まで武功を上げるんじゃ!」

「はっ。義父上が背中を守って下さればこそ、後顧の憂いなく戦えまする!」

久兵衛は押取り刀で秀吉の本隊に合流、山崎の地(現:京都府乙訓郡大山崎町)で明智の軍勢を撃破。この「山崎合戦」で大いに武功を立てた久兵衛は、恩賞として五千石の所領を賜りました。

「……ところで久兵衛、モノは相談なのじゃが……」

久兵衛は秀吉から直々に声をかけられ、秀吉の甥である羽柴秀次(ひでつぐ)の補佐役に抜擢されます。

秀次は以前、秀吉が浅井家を攻略する際に宮部継潤の養子(実質的な人質)に出されていたことがあり、久兵衛とも親しく交わっていたことがあったのです。

「有難き仕合せにございまする!」

しかし、これによって久兵衛はおよそ二十年の永きにわたり奉公してきた主君であり、義父でもある宮部継潤との別れを余儀なくされました。

「……義父上」

「構わぬ。わしには嫡男の兵部(宮部長房)もおるし、治兵衛(じへゑ。秀次)様の下でなら、そなたもより大きな働きが出来よう……たまには便りなどするように」

「ははぁ……」

かくして久兵衛は秀次の家老として、その政治的手腕をいかんなく発揮することになります。

【続く】

※参考文献:
市立長浜城歴史博物館ら『秀吉を支えた武将 田中吉政―近畿・東海と九州をつなぐ戦国史』市立長浜城歴史博物館、2005年10月
宇野秀史ら『田中吉政 天下人を支えた田中一族』梓書院、2018年1月

 

RELATED 関連する記事