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関ヶ原に散った「石田三成」の忘れ形見。生き長らえた6人の子供たちのそれから【前編】

関ヶ原に散った「石田三成」の忘れ形見。生き長らえた6人の子供たちのそれから【前編】

1600年に勃発した「関ヶ原の戦い」。西軍の中心人物であった「石田三成」は敗戦により捕らえられ六条河原で斬首された。石田一族の多くはこの戦いで討死しているが、三成の6人の子供たちは生き長らえている

今回は、三成亡き後、6人の子供たちがどのような人生を歩んだのか紹介したい。

長男・石田重家

生年月日は定かではない。母は三成の正室「皎月院(こうげついん)」。1583年または1587年頃に石田三成の嫡男として誕生したと考えられている。

1600年に関ヶ原の戦いが起こると、豊臣家の人質として大阪城に留まったとされる。西軍の敗戦が決まると京都妙心寺に移り、住職の「伯蒲慧稜(はくほえりょう)」によって剃髪、仏門に入る。

1686年に死去。正確な生年月日が不明なため享年はわかっていないが、関ヶ原の戦い以前に誕生していたことは事実であり当時としてはかなりの長寿であった。また、一説には仏門に入る以前に結婚し子供をもうけており、妻子は重家が仏門に入った後、徳川家康の次男・結城秀康に保護され子孫が続いたという。

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