戦国大名の織田信長。歴史上の人物の中でもトップクラスの人気を誇る彼の人生を、数々の破天荒エピソードとともにおさらいしましょう!
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父の葬儀で抹香投げる
1534年(天文3年)5月、尾張で生まれた織田信長は吉法師(きっぽうし)というなんだか一筋縄ではない幼名ですくすくと成長し、13歳で元服。16歳で隣国美濃の大名斎藤道三の娘・濃姫と結婚。1552年、18歳で父・信秀を病で失うと、家督を継ぎます。
しかしその時に有名な破天荒エピソードが誕生します。なんと、父の葬儀の焼香の際に、位牌に向かって抹香を投げつけたのです。歴史上の人物のこうしたエピソードにはウソのものが多いのですが、それは本当の話らしく、平手政秀という教育係の重臣が、死んで過ちをいさめる諫死(かんし)するという結末に至っています。
ちなみに平手の死を嘆き悲しんだ信長は、政秀寺(せいしゅうじ)という寺を建立しています。
弟も抹殺!?
1557年には弟の織田信勝(信行)を病気と称して呼び出し、謀殺。これも破天荒という言葉では済まない、とんでもないエピソード。
信長には絵に描いたような「いい子」の弟・信勝がおり、うつけ者の兄・信長と違って家臣の信頼も厚く、信勝を当主に推す動きがありました。
実際に父・信秀の死後に、当主の居城を継承したのは弟信勝。一応当主は嫡男の信長だったにも関わらず、次第に信長に対して「俺こそが織田の当主だ!」といわんばかりに独自の動きをし始めた弟・信勝の行動は、もはや信長の目に余るものがありました。
1556年、信行は柴田勝家らとともに、信長と敵対する意思をはっきりと表し、両者は稲生で激突します。結果は信長側の勝利。その年の11月2日、仮病を装った信長を見舞いに来た信行は、清洲城内で殺害されました。