浄土宗の礎となった「源信和尚」に届いた母からの手紙:2ページ目
源信僧侶の誕生
天暦4年(950年)千菊丸は9才で、比叡山中興の祖・慈慧大師良源に入門し、仏法を学ぶことになったのです。
千菊丸は天台宗の僧侶となり、名を『源信』と改めました。
もともと卓越した才知の持ち主であった源信は、良き師、良き環境に身を置いて“水を得た魚”の如く一心不乱に勉学に励みました。
源信が十五歳になるころには、比叡山でも傑出した僧侶として、その名を知らぬ者のいない存在となりました。
その頃、村上天皇より「学識優れた僧侶を内裏に招いて『称讃浄土経』(『阿弥陀経』の異訳のお経)の講釈を聞きたい」という知らせが比叡山に届きました。
この時代、寺の盛衰は時の権力者の力添えに大きく依存していたので、この要請は寺の一大事です。どの僧侶にこの役目を務めさせるかが話し合われました。
その結果、十五歳の源信がその役に任命されたのです。比叡山の数多くいる僧侶の中から、十五歳の源信が選ばれたというのは余程のことでしょう。
源信は村上天皇の前で『称讃浄土経』を立派に講じ、村上天皇により法華八講の講師の一人に選ばれることになったのです。そして天皇より様々な褒美の品を賜りました。
源信は“きっとお母様も喜んで下さるだろう”と思い、その品々を手紙と共にふるさとの母へと送ったのです。
すると母へ送った品々が開封もされずそのまま送り返されてきました。そこには一通の母からの手紙が添えてありました。その原文は平安時代末期に成立した『今昔物語集』に見ることができます。
私は、片時も、おまえのことを忘れたことはありません。
どんなに会いたくても、やがて尊い僧侶になってくれることを楽しみにして、耐えてきたのです。それなのに、権力者に褒められたくらいで有頂天になり、地位や財物を得て喜んでいるとは情けないことです。
名誉や利益のために説法するような、似非坊主となり果てたことは悔しさのかぎりです。
後生の一大事を解決するまでは、たとえ石の上に寝て、木の根をかじってでも、仏道を求め抜く覚悟で、山へ入ったのではなかったのではないですか。
夢のような儚い世にあって、迷っている人間から褒められて何になりましょう。後生の一大事を解決して、仏さまに褒められる人にならねばなりません。
そして、すべての人に、後生の一大事の解決の道を伝える、尊い僧侶になってもらいたいのです。 母より
後の世を渡す橋とぞ思いしに
世渡る僧となるぞ悲しき
母からの手紙を詠んだ源信は、自分の過ちに気づき苦しいほどに涙しました。
そして改心した源信は天皇から賜った品々を焼き払い、僧都の位も返上します。やがて源信は比叡山の横川にある草庵に隠棲し、念仏三昧・後生の一大事を解決するという求道の道を選んだのでした。
さてここで述べられる『後生の一大事』とは『生死の一大事』ともいわれ、生まれた者は必ず死んでいかねばならないという一大事のことです。
人は生まれれば必ず死ぬという事実に伴う苦悩、不安や恐れから如何に人々が救われることができるのか。善人も悪人さえも全ての人が救われるには。この難題を解決するために源信はあらゆる仏典を読み、仏道修行に励みました。
そして中国の中国浄土教の善導大師の著作から、どんな極悪人も救う阿弥陀如来の本願を知らされ、ついに阿弥陀如来の本願によって生死の一大事を解決したのです。
源信は『後生の一大事の解決を得た今ならば、きっとお母様も喜んで下さる』と母のいる故郷へと旅立ちました。
家に着くと、母は既に重い病にかかっており危篤状態でした。
「お母様、遅くなって申し訳ありません、源信です」
「ああ、源信ですか。今生で会えるとは思ってはいませんでした・・・」
9歳で家を出てから母に再会するまでに30年以上の年月が経っていました。母はその間も源信が立派な僧侶になることを願い続けてきたのです。
源信は今こそこれまでの母の御恩に報いる時と、“後生の一大事”の解決とは阿弥陀如来の本願を知ることであると説きました。
母は源信の説法を聴き、阿弥陀如来に救われて72歳で往生を遂げたと伝えられています。