皇女二人を生むが…藤原道長の野望で皇位継承の前途を絶たれた敦康親王の一人娘・嫄子女王の生涯【光る君へ】
一条天皇の第一皇子でありながら、藤原道長の野望により皇位継承の前途を絶たれてしまった敦康親王。
風流典雅に生きながら、失意のうちに薨去した敦康親王には一人娘がいました。
今回は敦康親王の一人娘・嫄子女王(げんし/もとこ)がどんな女性で、どんな生涯をたどったのかを紹介したいと思います。
後朱雀天皇に入内するが……。
嫄子女王は長和5年(1016年)7月19日、具平親王女(ともひら娘)との間に誕生しました。
父方の祖父は一条天皇、母方の祖父は村上天皇という豪華な血統ですね。
母方の叔母である隆姫女王(たかひめ)の伝手により、当時は娘がいなかった藤原頼通(隆姫女王夫)の養女となりました。
これにより藤原嫄子とも呼ばれます(臣籍降下したので源嫄子とも言えますが、そう呼ばれた記録はないようです)。
寛仁2年(1018年)12月17日に実父の敦康親王が薨去。3歳という幼さで嫄子は父と死に別れてしまいました。
頼通夫婦の元で成長した嫄子は22歳となった長元10年(1037年)1月7日に後朱雀天皇(敦良親王)へ入内します。
後朱雀天皇は一条天皇の第三皇子(敦康親王の異母弟)なので、義理の叔父と結婚したのですね。
果たして入内した嫄子は女御の宣旨を受け、正四位下に叙されます。そして同年3月1日に中宮となりました。
この時、先に入内していた中宮・禎子内親王(ていし/さだこ。三条天皇女)は皇后に祀り上げられ、次第に冷遇されていきます。
※皇后の方が中宮より身分は高いものの、名誉職的な存在だったため、実質的な扱いはよくなかったようです。
嫄子も手放しでは喜べず、禎子内親王ともども実に微妙な気分だったことでしょう。
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