小田原攻めと「奥州仕置」はなぜ起きた?豊臣秀吉の天下統一事業のラストを飾る2つの事件
北条の滅亡と奥州仕置
豊臣秀吉が名実ともに天下統一を成し遂げたのは、五代に渡って関東を支配した北条氏の滅亡、奥州仕置を経てからのことです。が、出来事としてはこの二つはいわゆる戦国大名同士のバトルという感じではありません。
北条氏の滅亡は、見方によっては必要のない出来事でした。奥州仕置も、秀吉の国割りに対する反乱を鎮圧したもので、いわば天下統一事業の後始末のようなところがあります。
まず北条氏が滅亡に至った経緯ですが、もともと北条氏は、豊臣秀吉による天下統一の流れは覆せないものと判断して従属することに決めていました。
1589年2月のこと、北条家五代目当主である北条氏直は、真田領である上野沼田を割譲してくれるよう秀吉に求めました。沼田は、小牧・長久手の戦いの中でのゴタゴタで宙に浮いていた状態だったのです。
その結果、秀吉は沼田の三分の二を北条のもの、残り三分の一を真田のものとします。その裁定を氏直も受け入れて、ことは落着したように思われました。
名胡桃城事件の勃発
ところがそれから九カ月後、1589年11月に北条軍が真田氏の名胡桃城を奪い取る事件が起きます。
名胡桃城は真田氏の沼田城の支城にあたり、これはせっかく裁定を下した秀吉のメンツを潰したのみならず、大名同士の戦いを禁止する惣無事政策にも違反するものでした。
最初こそ、北条側も秀吉に釈明して怒りを鎮めようと懸命でした。しかし話がこじれて秀吉と氏直の交渉は決裂、これが小田原攻めと北条氏討伐へと続いてくことになったのです。
名胡桃城の奪取事件さえなければ、おそらく小田原はもっと平和裏に治められていたことでしょう。
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