手洗いをしっかりしよう!Japaaan

猪突猛進「香車の伝右衛門」こと戦国武将・初鹿野信昌が陣羽織に仕込んだネタにアッパレ!

猪突猛進「香車の伝右衛門」こと戦国武将・初鹿野信昌が陣羽織に仕込んだネタにアッパレ!

皆さんは将棋を指したことがありますか?

将棋は合戦を盤と駒によって表現。様々な役割を持つ駒を使いこなして勝利(敵将を討ち取ること)を目指すゲームです。

前に一歩ずつしか進めない歩兵(ふひょう)や、ひたすら真っすぐ突き進む香車(きょうす/きょうしゃ)、進路上の駒を飛び越せる桂馬(けいま)など、それぞれの動きから人材の特性を表現することもあります。

今回は自らを「香車」の駒になぞらえた戦国武将・初鹿野信昌(はじかの のぶまさ)のエピソードを紹介。

果たして彼はどんな香車ぶりを見せてくれるのでしょうか。

初鹿野信昌の生涯

さて、初鹿野信昌は天文10年(1541年)に加藤駿河守虎景(かとう するがのかみとらかげ)の六男として誕生しました。幼名は弥五郎、別名を昌久、昌次などとも呼ばれます。

加藤家はかつて源頼朝(みなもとの よりとも)公に仕えた御家人・加藤景廉(かとう かげかど)の末裔。虎景は甲斐国の戦国大名・武田信虎(たけだ のぶとら)に仕えて活躍。

武者奉行として信虎の嫡男・武田晴信(はるのぶ。信玄)の教育係も務め、名前に虎の字を拝領している(偏諱を受ける)ことから、その実績と信頼がわかります。

そんな父の薫陶を受けたであろう弥五郎は、永禄4年(1561年)に勃発した川中島の合戦で初鹿野源五郎忠次(げんごろうただつぐ)が討死すると、初鹿野の家督を継ぎました。

この時に忠次の父・初鹿野伝右衛門高利(でんゑもんたかとし)より通称の伝右衛門を襲名。武田家の一角に存在感を示します。

信玄が亡くなった後は家督を継いだ武田勝頼(かつより。諏訪四郎)に仕え、天正3年(1575年)に長篠の合戦で敗れた時は、土屋右衛門尉昌恒(つちや うゑもんのじょうまさつね)と二人だけで勝頼を護衛しました。

天正10年(1582年)武田家の滅亡に際しては勝頼と合流を図ったものの、寝返った領民たちに妻子を人質にとられてしまったため断念。

その後、甲斐国を支配した徳川家康(とくがわ いえやす)によって7月24日に召し出され、8月7日に50貫文の領地を与えられられます(妻子は人質に)。

8月27日には加えて甲斐国の山梨郡・巨摩郡のうち270貫文あまりの領地を与えられました。

天正18年(1590年)に家康が関東へ移ると、伝右衛門は武蔵国足立、下総国葛飾、相馬、香取四郡に700石を与えられ、そちらへ移転します。

その後は慶長19年(1614年)大坂冬の陣への従軍を最後に引退、寛永元年(1624年)11月15日に84歳で世を去りました(※『甲斐国志』など、81歳で亡くなったとする説や文献も)。

墓は武蔵国足立郡片柳村の萬年寺(現:埼玉県さいたま市)にあり、今も人々を見守っています。

2ページ目 香車は後ろに進めないが…伝右衛門の仕込んだネタに大爆笑

 

RELATED 関連する記事