吉原はどんな場所だったの?江戸時代の見取り図や浮世絵で吉原遊廓をご案内

小山 桜子

江戸時代の幕府公認遊廓、吉原。ひとくちに吉原といっても、江戸時代初期に日本橋にあった元吉原、1657年の明暦の大火後に浅草の裏手に移動してからの新吉原の2つあり、落語などに出てくる「吉原」はたいてい新吉原の事を指します。今回はその新吉原遊廓を見取り図や浮世絵でご案内します。

吉原につくまで

吉原の入り口はたった1つ。北側の吉原大門です。そこにたどりつくには、土手八町と呼ばれる日本堤(八町堤とも)を通りました。

江戸末期新吉原見取り図(部分) 日本堤から大門まで(彩色、文字加筆:筆者)Wikipedia

その土手のまわりはなんとどこまでも続く広大な田んぼでした。北斎も、吉原遊廓の外で女の子たちが田植えの合間におしゃべりして笑っている様子を描いています。のどかなものですね。

北斎「富嶽三十六景 従千住花街眺望ノ不二」※左奥の家宅の集合が吉原遊廓

土手の両脇には水茶屋が160ほどもあって、夜は丸提灯で土手を明るく照らしました。さて、やがて土手を歩くと左手に1本の立派な柳が見えてきます。有名な「見返り柳」です。

歌川広重「江戸名所新吉原日本堤見返柳」ボストン美術館蔵

京都の島原遊廓の見返り柳は大門の傍にありますが、吉原遊廓の場合、見返り柳は「ここの角を曲がると吉原に続きますよ」という目印で、柳から大門までは約五十間=約870mもの距離がありました。さて、見返り柳の角を曲がって衣紋坂(五十間道とも)を下ります。

歌川広重「新吉原雪の朝」国立国会図書館蔵※くの字の道が衣紋坂、右手前が吉原大門

この衣紋坂には編み笠茶屋というのがありました。名前の通り、編み笠をレンタルした茶屋です。ここで編み笠を借りたり、手ぬぐいをかぶったり、扇子を広げたりして廓内で女郎を品定めする時にはこちらの顔は見せないのが粋な遊び人で、顔をもろ出しにして「君可愛いねエ!ぎゃはは」なんて騒ぐのは無粋な人のする事でした。

2ページ目 吉原の内部はこうなっていた

次のページ

この記事の画像一覧

シェアする

モバイルバージョンを終了