前回、東北地方に独自の政権を構えたヒーロー「奥州藤原氏」ってどんな人たちなの?[前編]では、奥州藤原氏の誕生について紹介しました。今回は、その栄華と滅亡についてお話します。
奥州に黄金時代をもたらした3代目・藤原秀衡
藤原秀衡は黄金を元手にした経済力で台頭した基衡の次男として生を受け、父の死に伴って後継者となりました。彼の代で藤原氏は各地の郡司ら豪族を従えており、17万騎の武士団を従える大勢力を作りあげていました。
秀衡が治めた平泉は、都の貴族から「奥州藤原氏の平泉政権は野蛮な連中だ」と嫌われる一方、17万もの武士を動員できる権力、そして黄金からなる経済力を無視できなかったと言われています。まさに黄金時代をもたらしたと言えますね。文化事業にも熱心で、彼の名を冠する伝統工芸品・秀衡塗(秀衡椀とも)は現在も平泉の名産です。
そうした中央への不満から源平合戦では中立を保っていた秀衡ですが、牛若丸と呼ばれていた頃の源義経を匿ったのは有名です。平宗盛から源頼朝を討つ役目を推挙されたり、頼朝からは都に黄金や馬を献じるように要請されたりしますが、秀衡はそれを巧みにやり過ごします。
文治3年(1187年)、頼朝に終われた義経が再び逃げ込んで来た時も寛大に受け入れる度量の大きさは健在でしたが、同年に秀衡は死去します。秀衡と言えば、小柄で枯れた老人と言うイメージがありますが、中尊寺金色堂に安置されたミイラは164cmで肥満体と言う大柄なものだったと言います。大河ドラマ『平清盛』で京本政樹さんが演じた、美しい秀衡のイメージが崩れかねませんが、堂々とした体格の方が豪族の頭としては相応しかったのかも知れませんね。