江戸吉原のライバルだった?度々のピンチを乗り越えた人気の深川遊里

阿部裕子

深川ってどんなところ?

現在の東京都江東区の西側に位置する深川は、徳川家康の名により開拓されるまでは茅が生い茂る荒れた土地でしたが、深川遊里は栄華を極めた吉原のライバルとも言われるほどの人気の場所でした。寛永4年(1627)には富岡八幡宮が建立され、門前町が許可されると人も自然と集まり、次々と遊女屋が出現します。深川遊里は幕府公認の吉原遊郭と異なり、非公認の岡場所でした。

深川がピンチ?次々に降りかかる度重なる打撃

深川には深川八幡深川洲崎がありましたが、天和2年(1682)12月に、駒込大円寺から出火し、富岡八幡宮近辺は焼け野原となってしまいました。その影響で、しばらくの間は深川には遊女屋もない状態でした。14年の時を経て、元禄9年(1696)に深川へわたる永代橋がかかり、翌年には家づくりの許可が下りたことで、深川は元の街並みに戻ったのです。2年後の元禄11年(1698)に、深川八幡に向かう通りの両側に6軒ずつ計12軒の茶屋が建ち、十二軒茶屋と呼ばれるようになりました。

ようやく落ち着いたと思いきや、今度は江戸の大地震で、宝永元年(1704)には洲崎に移転します。さらに同年に大雨による洪水のため、深川八幡はかなりの被害を被りました。一方、深川洲崎は比較的被害も少なかったので、これ以降は深川洲崎が深川遊里の中心になります。

3ページ目 深川でのあ・そ・び・か・た

次のページ

この記事の画像一覧

シェアする

モバイルバージョンを終了