【豊臣兄弟!】茶々、側室入りの引き金に…信長の実子で秀吉の養子・羽柴秀勝の短い生涯:2ページ目
二人目の羽柴秀勝となる於次丸秀勝
「秀勝」を名乗る息子は養子を含めて3人いることでも知られています。
ほかの秀勝と区別するため「於次丸秀勝(または於次秀勝)」と呼ぶことが多いようです。
秀勝は、永禄11年(1568)、織田信長の子として生まれました。
ちょうど、9月26日に信長が足利義昭を奉じて京都に上洛した頃。
秀勝は、信長の四男・五男の両方の説があり、生母は信長の側室・養観院とされています。
秀吉は、長浜城主時代、初めての男児となる・石松丸(石松丸秀勝/または石松秀勝)を側室との間に設けたものの、天正しい4年(1576)に死去しています。
その時の年齢は15歳以上と推測されていますが、実子であったか養子であったかは不明だそう。
※秀吉にいたとされる実子に関しては、こちらの記事で紹介しています。
天下人・豊臣秀吉にいたとされる4人の実子は本当なのか?現代まで残る風説を紹介【前編】
その後、秀吉は二人目の羽柴秀勝となる於次丸秀勝を、信長から貰い受けたのでした。
時期は天正5〜6年(1577〜78年)頃と推定され、遅くとも天正8年(1580年)までには成立していたとされています。
秀吉が於次丸と連名で8年に出した長浜八幡宮の奉加帳が残っています。(下の写真参照)
血縁の絆で主君と家来の絆を深める
信長の息子・於次丸が秀吉の養子になった経緯や理由としては、以下のような説が挙げられています。
⚫︎有能で勢いのある家臣・秀吉に実子を与えることで、血縁の絆で忠誠を固め、織田家との結びつきを強化する狙い。
(信長は血族を優遇する傾向があり、有力家臣の家に自分の子を入れることで、地位擁護や家臣統制にも役立てた。)
⚫︎秀吉も、出自の低い自分の家に信長の血を引く跡継ぎを迎えることで立場を安定させることができた。
⚫︎秀吉の正室・寧々が実子に恵まれないことを信長に懇願、主筋の子を迎えることで家中の安泰を図った。
いずれにしても、個人的な「信頼」だけではなく、戦国時代には珍しくない主従関係を血縁で補強する政略的な養子縁組だった推測されています。


