【豊臣兄弟!】13歳で末姫(池端杏慈)と祝言?秀長の後継者となった「羽柴秀保」の生涯【前編】:3ページ目
豊臣一門の筆頭格に
かくして秀保が家督を継ぐと、家老の藤堂高虎と桑山重晴(住田隆)が後見人となってその治政を補佐します。
ただしそれでも心もとないと思われたのか、それまで秀長が領有していた大和(奈良県)・紀伊(和歌山県)・和泉(大阪府南西部)の3ヶ国と伊賀国(三重県西部)の一部から、大和・紀伊2ヶ国を除く所領は召し上げられてしまいました。
それでも大和・紀伊の所領は広大なものです。また秀長が悪名高い金融政策・奈良借(ならかし)や紀州材木取引(利益の着服)で蓄えた莫大な財産で、その懐は豊かだったことでしょう。
ともあれ家督継承にともなって秀保は従四位下(じゅしいのげ)・参議(さんぎ)および近衛権中将(このゑのごんのちゅうじょう)に叙せられ、秀吉から豊臣の姓を与えられました。
また天正20年(1592年/文禄元年)には従三位(じゅさんみ)・権中納言(ごんのちゅうなごん)へ昇叙し、人々からは大和中納言・郡山中納言などと呼ばれるようになります。
養父の秀長が生前に大和大納言(だいなごん)と呼ばれていたため、それに対応したものでした。
同年2月には春日大社へ参拝し、広く大和国内外に対して新しい大和国主の権威を示すために家督始めの儀式を執り行っています。
このように叔父の秀長が持っていた権力を引き継いだ秀保は、官位などにおいて次兄の秀勝を上回っていました。
特に長兄の秀次が、秀吉から関白職を譲られた天正19年(1591年)12月28日以降、秀保は豊臣一門の筆頭格として扱われます(もちろん秀吉は殿堂入り)。
いっぽう諸大名に対しても、秀保の存在感は非常に大きなものでした。例えば文禄2年(1593年)に諸大名らと連名で提出した起請文には、徳川家康(松下洸平)に次いで署名があり、豊臣一門外でも五大老(徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家)に並ぶ存在であったことがわかります。
【後編へ続く】
※参考文献:
- 黒田基樹『シリーズ・織豊大名の研究 13 羽柴秀吉一門』戎光祥出版、2024年11月
- 柴裕之『シリーズ・織豊大名の研究 14 豊臣秀長』戎光祥出版、2024年11月