【ブラッサム】珠の同級生・角田忍が憧れた「平塚らいちょう」とは?『青鞜』が女学生の心を揺さぶった理由:2ページ目
「元始、女性は太陽であった」で知られる『青鞜』の創刊
らいちょうの生涯を代表する出来事のひとつが、明治44年(1911)に青鞜社を設立し、文芸誌『青鞜』を創刊したことでしょう。
当時25歳だったらいちょうは、評論家で小説家でもあった生田長江に女性だけの文芸誌の発行を勧められます。
さらに、日本女子大学の同窓生に後押しされ、女性の知友と共に発起人となりました。
創刊の辞に記された「元始、女性は太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である」という言葉は、女性が本来持つ力を取り戻そうという強いメッセージでした。
この言葉は、「ブラッサム」の忍のように、社会から抑圧され息苦しい思いをしていた女性たちの心に深く響き、雑誌は大きな反響を呼んだそうです。
下の写真は、凛とした佇まいの女性の全身像が描かれている『青鞜』の表紙です。
当時の日本女性の絵画というと、着物姿で控えめ、従順な雰囲気のイメージが多いように感じますが、この女性は強い視線を上に向け堂々とした姿勢が特徴。
「新しく自立する女性」というイメージを出したのでしょうか。
この表紙は、『智恵子抄』などの詩集で有名な高村光太郎夫人となる女流画家・長沼智恵子が描いたものです。
教養のある知的な女性『ブルーストッキング』=『青鞜』
『青鞜』という言葉は、18世紀のイギリスで因習に反する女性をBlue Stockingsと呼んだことに由来します。本の創刊を進めてくれた生田長江が命名しました。
ブルーストッキングは、教養のある知的な女性を指す英語で、元々は18世紀のイギリスで結成された上流婦人のグループであるブルー・ストッキングス・ソサエティの会員を指す言葉だったそうです。
創刊号は、予想を上回る反響があり、一年後の青鞜社主催の講演会には、満員御礼の千人が集まったといわれます。「青鞜」が大胆な自我の主張と女性だけで独立の言論の場を持ったことは、社会に大きな影響を与えました。(白つつじの会〜生田長江顕彰会〜)
多くの女性に支持されながらも、“良妻賢母が女性の生きる道”としていた当時の社会は、「新しい女性」の主張を簡単には受け入れませんでした。
『青鞜』は何度か発禁処分を受けたり、らいちょう自身も世間から厳しい批判を浴びたりしたそうです。
それでも彼女は活動を続け、大正3年(1914)28歳頃からは、画家の奥村博史と事実婚の生活を始めます。
婚姻届を出さない選択は、当時の家父長制や結婚制度への静かな抵抗でもあったといわれています。(27年後、55歳の頃に婚姻届を提出)
3ページ目 85歳で亡くなるまで女性の権利と平和を訴える活動


