【豊臣兄弟!】秀長と高虎の残酷すぎる“裏の顔”…「北山一揆」残党狩りで民衆を恐怖に陥れた凄惨な記録:2ページ目
執拗な残党狩り
やがて天正15年(1587年)5月に九州征伐が完了し、戦後処理など諸々の準備を整えた秀長は、再び一揆勢に矛先を向けます。
天正16年(1588年)、秀長は藤堂高虎(佳久創)に命じて赤木城(三重県熊野市)を築かせました。これは一揆殲滅の前線基地・殲滅後の支配拠点とするためで、いかに秀長が本腰を入れていたかがわかります。
築城がある程度の形となったところで、秀長は9月に再度の出兵に乗り出しました。
兵を率いたのは吉川平助(松岡広大)・吉川三蔵(きっかわ さんぞう)で、この年は雪が少なかったのか、徹底的に攻め込んだようです。
そんな中、同年12月に吉川平助が材木取引の利益を横領していることが発覚。平助は処刑され、秀長は監督不行き届きで秀吉の怒りを買ってしまいました。
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同族である三蔵の処分(連座?お咎めなし?)についてはわかりませんが、一揆殲滅の指揮権は藤堂高虎に引き継がれたものと考えられます。
執拗な残党狩りはどこまでも続き、明けて天正17年(1589年)5月には多数の農民が捕らわれ、赤木城へ引き立てられていきました。
そして田平子峠(たびらことうげ)でことごとく斬首されたと言うことです。
♪行ったら戻らぬ赤木の城へ、身捨てどころは田平子じゃ♪
現地ではこんな俗謡が生まれ、秀長の苛烈な仕打ちを現代に伝えています。
終わりに
今回は羽柴秀長の統治に反発した北山一揆について紹介してきました。
秀長が彼らを徹底的に弾圧したのは、激しい合戦に苦しめられたことの裏返しと言えるでしょう。
昭和43年(1968年)には北山一揆の犠牲者を弔う供養塔が建立され、平成元年(1989年)には「赤木城跡及び田平子峠刑場跡」が名勝史跡天然記念物に指定され、往時を偲ばせています。
果たして大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、北山一揆に立ち向かう秀長の葛藤と決断が描かれるのでしょうか。
※参考文献:
- 小山靖憲ら編『和歌山県の歴史』山川出版社、2004年7月
- 小和田泰経『天空の城を行く』平凡社新書、2015年5月
- 新人物往来社 編『豊臣秀長のすべて』新人物往来社、1996年7月


