【豊臣兄弟!】狩野永徳(片岡鶴太郎)、実は秀長より年下!信長・秀吉を魅了し絵に命を捧げた生涯:2ページ目
信長・秀吉からの依頼
かくして狩野派を代表する絵師として名声を高めた永徳を、織田信長が放っておくはずがありません。
安土城(滋賀県近江八幡市)の障壁画を描くように命じられた永徳は、これを受けるよりありませんでした。
もし失敗したらタダでは済まないと覚悟した永徳は、弟の狩野宗秀(むねひで/そうしゅう)に家屋敷や財産の多くを譲ります。
たとえ自分が処刑されても、妻子らを弟が保護してくれることを願ったのでしょう。
かくして決死の覚悟で安土城の障壁画に取り組んだ結果、見事な作品に仕上がったそうです。
天正10年(1582年)に信長が本能寺で横死を遂げ、織田政権をまんまと乗っ取った羽柴秀吉もまた、永徳の画風を好みました。
天正11年(1583年)には大坂城の障壁画を描かせ、また天正14年(1586年)には京都聚楽第(じゅらくだい)の障壁画を描かせています。
絢爛豪華な派手好みの秀吉に相応しい作品が、秀吉を満足させたことでしょう。
最期は過労死
続いて天正17年(1589年)には後陽成天皇(第107代)の求めに応じて内裏の障壁画を描き、天正18年(1590年)には八条宮家(のち桂宮家)の障壁画も手がけました。
永徳は休む間もなく描き続け、天正18年(1590年)9月に東福寺(京都市東山区)で天井画(龍図)の制作にとりかかりました。
しかし過労がたたり、急病に倒れて9月14日に世を去ってしまいます。享年48歳、現代で言えば過労死だったのでしょう。
永徳の戒名は聴受院殿永徳法眼高信日意大居士(ちょうじゅいんでん えいとくほうげん こうしんにちいだいこじ)、京都妙覚寺に葬られました。
ちなみに描きかけの龍図は、下絵まで出来ていたのを弟子の狩野山楽(さんらく)が仕上げたものの、残念ながら現存していません。
今回は安土桃山時代を代表する絵師の一人・狩野永徳について、その生涯をたどってきました。
絵に描いたような仕事人間で、絵を描きながら真っ白に燃え尽きたことでしょう。
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※参考文献:
- 川本桂子『狩野永徳』新潮日本美術文庫、1997年4月



