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源頼朝に血祭りにあげられた男…「悪代官」の濡れ衣・山木兼隆|在任わずか50日のあまりに不遇な生涯

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北条政子との縁談

かくして伊豆国の代官として権力を握った兼隆には山木兼光(かねみつ)・山木兼盛(かねもり)という子がいましたが、その生母は不明です。

『曽我物語』などの軍記物語では、伊豆の豪族である北条時政の娘・北条政子との縁談が進んでいたといいます。

しかし政子は時政が大番役として上洛していた隙に、流人の源頼朝と恋仲となってしまいました。

これを知った時政は「罪人と身内になるなどまっぴら御免」とばかり、大急ぎで政子を兼隆へ嫁がせようとしましたが、政子は北条邸を脱出して頼朝の元へ逃げ込みます。

政子と頼朝は伊豆山権現へ駆け落ちして庇護を受けたため、もう連れ戻すことができません。そこで時政は、しぶしぶ政子と頼朝の縁談を認めたのでした。

鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』でも、政子は後に「闇夜をさまよい、雨をしのいで貴方のもとへ参りました」とこの時の思い出を語っています。

結局、兼隆は政子を娶ることなく、他の女性と子供をもうけたのでした。

目代だったのはわずか2ヶ月?

ちなみに兼隆が伊豆の目代に任じられた時期についても異説があり、平時忠が伊豆国主となったのは治承4年(1180年)に以仁王の乱が鎮圧された後の同年6月末だと言います。

それまでは以仁王(もちひとおう)を擁立した源頼政(よりまさ)の嫡男である源仲綱(なかつな)が伊豆の国主でした。

だから兼隆が伊豆の目代となり、同年8月17日に討たれるまでは約50日ほどしかありません。

目代となって大威張りするくらいは出来たとしても、その短期間で民百姓が苦しむほどの暴政をしくのは、少し難しいのではないでしょうか。

それほどインパクトが強い暴政をしいたのであれば、何かしら記録が残る、あるいは挙兵の正当性を訴えるために頼朝たちが喧伝すると考えるのが自然です。

そうした痕跡がないということは、兼隆が極端な暴君・悪代官であったとする見方について、再考の余地があるかもしれません。

3ページ目 八巻と称した子孫たち

 

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