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朝ドラ「風、薫る」会津戦争で姉を失った悲劇…女学校の校長・望月勘治(関智一)のモデル・中野豊記の生涯

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近代教育によって身を立て、後進を育成する道を選ぶ

明治維新後、豊記は自身の力で未来を切り開いていくこととなります。

豊記は、新沼間守一の私塾で英語を学習。沼間は幕臣出身で、明治時代には新聞人や政治家として活動した人物です。

やがて豊記は、官立新潟師範学校(新潟大学の前身)に進学する道を選びました。

師範学校とは、小学校の教員を養成するために設けられた学校です。全国的な学校制度が整えられ始めたばかりの当時、近代的な教授法を学んだ教員は貴重な存在でした。

豊記は同校の第一期生となったとされ、卒業後は新潟県の教育に携わります。

戊辰戦争から数年しか経過していない時期に、かつて敵味方に分かれた藩の出身者たちが同じ学校で教育を学んでいました。

この経験は、豊記の進路に大きな意味を持つこととなります。武力によって国を動かす時代から、教育によって国民を育てる時代へと、日本が変わり始めていました。

明治5(1872)年、明治政府は「学制」を公布。全国に学校を設けようとしますが、学校の建物だけでなく、教員も教科書も不足していました。

このとき豊記は、教壇に立つだけでなく、子どもたちが学ぶための教材づくりにも力を注ぎます。

明治13(1880)年頃には、新潟師範学校教員の今井退蔵とともに『小学用算術書』を編纂。同書は、小学校で算術を教えるために作られた教科書です。

明治14(1881)年には『小学日本暗射地図附録』を編集。地名などを書き込まず、地形や輪郭を見ながら地理を覚えるための教材です。同書の校閲には、のちに国語辞典『言海』を編纂する大槻文彦が関わりました。

さらに明治17(1884)年には、中沢中とともに『小学作法書』を編集しています。

算術、地理、作法と、豊記が関わった分野は一つではありません。新しい学校制度のもとで、子どもたちに何を、どのように教えるのかを形にしていったのです。

3ページ目 新潟県視学から高田高等女学校校長へ

 

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