なぜ普通選挙と治安維持法は同時制定だった?教科書では書かれない当時の日本人が望んだもの
国際労働基準と日本
教科書では、大正末期から昭和初期の経済停滞により労働争議や小作争議が頻発したと書かれています。確かにそれは事実ですし、この時期に悪名高い治安維持法が制定されています。
この時代について論じる際、どうしてもこの治安維持法によって国家が人々を弾圧していた点にスポットが当てられがちですが、状況はもう少し複雑で微妙なものでした。今回はその点を見ていきましょう。
第一次世界大戦後の1920年、日本は国際連盟の常任理事国になります。
これにより様々な義務が生じました。そのひとつが国際労働基準の遵守です。
国際連盟加盟により、日本は国際労働機関にも加盟する必要がありました。当時は8時間労働が世界標準になりつつあり、日本も労働者保護を欧米並みにする義務が発生したのです。
そこで社会政策にふさわしい団体として、立憲政友会や憲政会といった政党が台頭します。
政党間で政策を競い合い、より多くの有権者の支持を得た政党が交代で内閣を組織するようになりました。ここに政党内閣が定着し、二大政党制は憲政の常道とみなされるようになります。
普通選挙法と治安維持法
ところで、有権者の支持で重要になるのが男性普通選挙でした。1910年代から欧米主要国では、これは当たり前の制度でした。
大戦後に主要国と肩を並べる立場になった日本でも、民主主義を実現していく世界各国の影響を受けて、制度導入はいつかは通らなければならない道だったのです。
いわゆる大正デモクラシーですね。世間でも、財産や身分などの制限のない普通選挙を求める動きが高まっていました。
そんなこともあって、1925年に25歳以上のすべての男子に選挙権を認める普通選挙法が制定され、1928年に初の普通選挙が実施されました。
これと同時に、治安維持法も制定されます。
普通選挙法により新たに生まれた有権者は1000万人以上で、そのほとんどは小作農民や労働者などの無産者でした。
当時の政党は基本的に地主と資本家のためのものだったので、無産者の票が無産政党に流れるのを防ぐため、政府は治安維持法で社会主義運動を弾圧しようとしたのです。
当時の政府は、普通選挙によって労働者や社会(共産)主義者の力が大きくなり社会運動が激しくなることや、日ソ国交が樹立したことでソ連から社会(共産)主義思想の影響が大きくなり、政権や国の体制が変えられてしまうことを非常に警戒していました。
そこで社会(共産)主義運動などを取り締まるために、普通選挙法が成立する直前に治安維持法を成立させたわけです。

