塚原卜伝(つかはらぼくでん)の鹿島新當流(かしましんとうりゅう)、上泉信綱(かみいずみのぶつな)の新陰流(しんかげりゅう)と並んで戦国時代に編み出された剣術の1つ、神夢想林崎流(しんむそうはやしざきりゅう)。
これは林崎甚助(はやしざき-じんすけ)が創始した抜刀術の流派で、甚助自体抜刀術の始祖として広く知られています。
また、その成立の背景には、甚助の父の死が深く関わっていたと伝わっています。
では、その出来事が甚助にどのような影響を与えたのでしょうか。今回は林崎甚助の生涯をたどりながら、神夢想林崎流の始まりについてご紹介します。
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幼くして父と死別
林崎甚助こと林崎甚助重信(以下甚助)は、天文11年(1542)に戦国時代の出羽国楯山林崎(現在の山形県村山市林崎)に生まれました。
幼い頃の名は民治丸で、聡明かつ武に秀でていたと言われる幼少期でしたが、天文16年(1547)に彼の人生を大きく変える出来事が起こります。
それは甚助の父・浅野数馬が、坂一雲斎に碁打ちの帰宅中に闇討ちされるという、6歳の甚助にとってあまりにも過酷な現実でした。
夢の中で秘術を授かる
父を殺害されたことで復讐の念に燃える甚助は、楯岡城(現在の山形県村山市楯岡楯)にいた武芸師範・東根刑部太夫のもとで修行を始めました。
そして弘治2年(1556)、実家付近にある林崎明神にて百日参籠を行いつつ、家伝の三尺二寸三分(約1メートル)の刀・信国を用いて日夜鍛錬していた際、参籠の最終日に夢の中でその明神より秘術・卍抜を授けられます。
ちなみに卍抜は、帯刀から横方向に刀を切り払う技法のこと。一見シンプルに思えますが、約1メートルの刀を扱うことから相当の技術が必要とされており、十字剣の別名でも知られています。
