『べらぼう』恋川春町の覚悟の死とSNSで「理想の上司」と絶賛された主君・松平信義の言葉を考察【前編】:2ページ目
寛政元年(1789)『鸚鵡返文武二道』が、松平定信の「文武奨励策」を揶揄して批判している内容だと、呼び出しを受けた恋川春町。現代の私たちがみても、かなり攻めた内容になっていました。
※『鸚鵡返文武二道』の内容↓
【べらぼう】恋川春町の破滅のきっかけ『鸚鵡返文武二道』は実際どんな物語なのか?蔦重の運命も暗転
“質素倹約と文武両道”に励めとゴリ押しする松平定信。前回のドラマでは、大ヒット本となっら朋誠堂喜三二(平沢常富/尾美としのり)の『文武二道万石通』を読み、「喜三二の神が私をうがってくださったのか!」と、目を輝かせて喜ぶという勘違いをしていたのに。
今回の本に、露骨なまでに込められた揶揄にはカッとなってしまったでしょう。大好きな黄表紙や作者に裏切られたように感じたのだと思います。
春町にしてみれば、ただ馬鹿にしただけではなく
「世の中には「文武奨励策」を勘違いしてる人ばかり。ぬらくら侍のほうが多いですよ。理想論だけを押し付けるのではなく、もっとちゃんと現実を見てください」
という戒めの気持ちも込めていたのですが。てい(橋本愛)が懸念していたように、その「戒め」の思いは伝わらず「バカにしている!」としか捉えてもらえませんでした。
田沼を追いやりイケイケで自分の政策を進めるも、なかなか上手くことが運ばず疲れ気味の定信。今まで黙殺されていた賄賂を厳しく取り締まったゆえ、お役目を自体する者が続出し仕事が増えて、余裕を無くしている様子。
寛政の改革を担う幕臣・本多忠籌(矢島健一)に「お役目を皆が断るのは持ち出しが厳しくでうまみがないから、富める者だけしかできない」と訴えられても「だから倹約しろと言ってる!」と言う始末。「忠義こそ喜び」と考える融通の効かない定信には伝わりませんでした。
さらに、松前藩の極悪非道な方法での蝦夷の平定に、蝦夷を上知して幕府の管轄領にしようという提案を、御三家の前で披露するも、一橋治済(生田斗真)に、「そなたはそれでよいのか?そなたこそが「田沼病」と笑われはせぬかと案じておる。」と嫌味たっぷりに小馬鹿にされつつ言われる始末。
「蝦夷の上知は、皆に田沼の案の焼き直しだと思われてしまうぞ」と、恋川春町の『悦贔屓蝦夷押領』を懐から出して定信の前に投げ付けます。この話は、田沼意次を源義経にみたてて蝦夷を平定させ将軍に献上するという話で、手柄の横取りがテーマ。これを嫌味ったらしく投げつけられ「田沼病」呼ばわりされてはさぞかしブチギレたでしょう。
一橋治済の、人を煽って陥れていく悪魔的なやり方は、感心してしまいます。(褒めてはいませんが)。


