手洗いをしっかりしよう!Japaaan

朝ドラ『あんぱん』作曲家の頂点から突然の別れ…いせたくや(大森元貴)のモデル・いずみたくの生涯

朝ドラ『あんぱん』作曲家の頂点から突然の別れ…いせたくや(大森元貴)のモデル・いずみたくの生涯:2ページ目

大衆歌とミュージカルの頂点

やがて、いずみたくに運命的な出会いが訪れます。

昭和35(1960)年、ミュージカル『見上げてごらん夜の星を』(同名の曲の作曲はいずみたくが担当)の制作が決定。その制作現場において、同名の曲の作詞者・永六輔から、やなせたかしを紹介されたのです。

翌昭和36(1961)年、たくはやなせたかしの作詞で『手のひらを太陽に』を作曲。次の年の昭和37年(1962)には、NHK『みんなのうた』で放送されて子供達に人気を博しました。

やなせたかしとの出合いによって、お茶の間にいずみたくの名前が轟いた瞬間です。

昭和38(1963)年には、作曲した『見上げてごらん夜の星を』が坂本九の歌唱で大ヒットを記録。たくは、日本レコード大賞作曲賞を受賞するに至ります。

名実ともに、日本一の作曲家に登り詰めた瞬間でした。

しかしたくは、それで慢心することはありません。

「チョコレートは明治」や「伊東に行くならハトヤ」などのCM音楽を担当。歌謡曲では「恋の季節」や「夜明けのスキャット」、「いい湯だな」などで大ヒットを続け様に出しました。

舞台面では、六本木に小劇場「アトリエフォンテーヌ」を開設。自作ミュージカルの実験拠点とします。

昭和51(1976)年、同劇場でやなせたかしの手がけた舞台「怪傑アンパンマン」が上演。たくは制作として携わりました。

国民的作曲家となりながらも、たくは歩みをとめません。

昭和52(1977)年、ミュージカル専門の劇団イッツフォーリーズを創設。『洪水の前』『歌麿』などで芸術祭諸賞紀伊國屋演劇賞特別賞を受け、歌謡・舞台の両輪で「大衆芸術をつくる作曲家」の姿を確立しました。

参議院議員としての3年と、突然の別れ

作曲家として不動の地位を築いたいずみたくでしたが、次の目標ができていました。

昭和61(1986)年、第二院クラブから参議院比例区に出馬。落選したものの、平成元(1989)年に同党の青島幸男が辞職したことで繰り上げ当選を果たしました。

音楽の第一線にいた彼にとって、特に重視したのが文化・教育政策に関わる審議です。

当時の日本は、世界第2位の経済大国でした。しかしたくは、国の文化・芸術への予算配分が十分でないとして、予算増額を訴えます。

自分の道を歩んでいたたくでしたが、残された時間はわずかでした。

参議院議員の任期途中の平成4年5月11日、いずみたくは病没。享年62。

一世を風靡した大作曲家でありながら、決して人々の求めるものを忘れず、常に新しいものを追い続けた生涯でした。

 

RELATED 関連する記事