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【べらぼう外伝】松平定信に重用された火付盗賊改方・森山孝盛はなぜ「鬼平」長谷川平蔵を批判したのか?

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「鬼平」長谷川平蔵を批判

火付盗賊改方として、長谷川平蔵の後任者に当たる森山孝盛ですが、自身の随筆において平蔵を批判しています。

確かに平蔵は高い実績を誇っていたものの、ご禁制であった岡引(おかっぴき)を採用しており、それを批判したのです。

岡引(目明し等とも)とは私的に雇われた前科者で、情報収集や犯罪捜査に威力を発揮しました。

いくら実績を上げていようとも、その手段がルール違反であっては、社会秩序を守る者として示しがつきません。

ルールを守らせるからには、自身も(不合理であろうと)ルールを守るべきと考えていたのでしょう。

こういう性分は松平定信に通じるものがあり、彼から重用されたのも解ります。

※参考:

『べらぼう』松平定信(井上祐貴)を転落へと追い詰めた事件とは?正論の押し付けが仇となり一橋治済とも対立

白河の 清きに魚の すみかねてもとの濁りの 田沼こひしき【歌意】白河(松平定信)は清廉潔白すぎて息苦しい。少しくらい濁っていても、田沼(意次)の時代が恋しいなぁ……。そんな狂歌が世に出…

森山一族・こぼれ話

時に森山一族は近江国守山が発祥で、後に信濃国佐久へ移住した際に現地を守山と名づけ、苗字としました。

のち守山豊後守俊盛の時代、徳川家康が発行した朱印状に「森山」と誤記されたため、表記を森山に改めます。

ただし正保から貞享(1644~1688年)の期間は日記に「守山」と記し、元禄(1688~1704年)以降は「森山」と記すようになりました。

その理由については、当人たちもよくわからないということでした(『寛政重脩諸家譜』より)。

3ページ目 森山孝盛・基本データ

森山孝盛・略系図

……守山盛明(信州佐久郡へ移住)-守山盛定(上杉憲寛⇒武田信玄)-森山俊盛(武田⇒徳川家康)-森山盛房(武田⇒徳川秀忠)-森山盛治(秀忠⇒忠長⇒浪人⇒家光)-森山盛勝(家光⇒家綱⇒綱吉)-森山盛照(家綱⇒綱吉)-森山盛寿(もりなが。綱吉⇒家宣⇒家継⇒吉宗)=森山盛芳(もりとを。兄・森寿の養子に)=森山盛明(家重⇒家治)=森山孝盛(盛芳の子)=森山盛年(婿養子)-森山熊五郎(詳細不明)……

※『寛政重脩諸家譜』より。()内は主君など。

森山孝盛・基本データ

  • 生没:元文3年(1738年)生~文化12年(1815年)5月14日没(78歳)
  • 通称:熊五郎、源五郎、闇窓(あんそう。号)
  • 両親:森山盛芳/諏訪頼安女
  • 養父:森山盛明(義兄。父の養子)
  • 妻妾:石野傳右衛門廣貞女(先妻)、加賀美金右衛門遠貞女(後妻)
  • 子女:女子(森山盛年妻)、女子(深尾鎌五郎元典と離婚)、女子(詳細不明)
  • 養子:森山盛年(婿養子)
  • 主君:徳川家治(第10代)⇒徳川家斉(第11代)
  • 著作:「賤(しづ)のをだ巻」「自家年譜」「蜑(あま)の焼藻(たくも)」「闇窓随筆」
  • 記録:「御加役代々記」「公務愚案」
  • 家紋:𥻘(すはま。洲浜)、瓜、三地紙の内一文字(みつぢがみのうちいちもんじ)

森山孝盛・略年表

  • 元文3年(1738年) 誕生
  • 明和8年(1771年)3月26日 家督を継承する(采地300石、廩米100俵)
  • 安永元年(1772年)12月22日 徳川家治に拝謁する
  • 安永2年(1773年)4月26日 大番に列する
  • 天明4年(1784年)9月14日 小普請組頭となる
  • 寛政2年(1790年)9月1日 御徒頭に栄転する
  • 同年 11月27日 布衣着用を許される
  • 寛政3年(1791年)5月11日 御目付に昇進する
  • 寛政4年(1792年)3月1日 命により関東各地の川普請を監督する
  • 寛政5年(1793年)1月 命により伊豆・相模・安房・上総を視察する
  • 同年 3月 松平定信に従って先の国々を案内する
  • 寛政6年(1794年)3月17日 御先鉄砲頭となる
  • 寛政7年(1795年)5月21日 盗賊追捕の役を務める
  • 寛政8年(1796年)6月2日 盗賊追捕の役を御免となる
  • 同年 12月10日 若君(後の徳川家慶)の補佐として西ノ丸に勤める
  • 時期不明 西丸持弓頭を務める
  • 時期不明 槍奉行を務める
  • 文化9年(1812年) 致仕(引退)する
  • 文化12年(1815年)5月14日 死去

3ページ目 『寛政重脩諸家譜』の記述

 

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