NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」で栁俊太郎さんが演じている土山宗次郎の生涯を、史実を基にまとめるとこのような具合です。
- 田沼意次の側近として、勘定分野で活躍する
- ロシア対策&蝦夷地開発を提言する
- 贅沢の限りを尽くして豪遊、誰袖花魁(福原遥)を1,200両で身請けする
- 公金の横領が発覚、逐電するも斬首される
今回はそんな土山宗次郎の生涯を詳しくたどっていきたいと思います。
◆土山宗次郎/栁 俊太郎
つちやま・そうじろう/やなぎ・しゅんたろう政変により人生を狂わされた意次の側近、勘定組頭
田沼意次(渡辺 謙)の家臣で、勘定組頭の旗本。意次が蝦夷開発を積極的に推進するなかで、その探査役として、大きく関わっていく。また吉原での豪遊も絶えず、大田南畝のパトロンとして、贅沢(ぜいたく)の限りを尽くし、やがて大文字屋の花魁(おいらん)・誰袖(たがそで/福原 遥)を莫大な金額で身請けするも、意次が失脚すると、悲運な人生をたどっていく。
※NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」公式サイトより。
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小普請から勘定組頭へ
土山宗次郎は元文5年(1740年)、土山孝祖(たかもと)と土山照苗女(てるなり娘)の長男として誕生しました。兄弟には女子(堀利之妻)や長滝政央(ながたき まさなか)らがいます。
元服して通称を宗次郎、または藤次郎と称しました。諱(いみな。実名)は土山孝之(たかゆき)です。
やがて日下部七十郎女(くさかべ しちじゅうろう娘)を妻に迎え、一人娘を授かりました。後に養女(柳田政武妻)を迎えていますが、跡を取らせる男児は迎えなかったのでしょうか。
土山宗次郎は宝暦6年(1756年)に17歳で家督を継ぎますが、役は得られず小普請(こぶしん。無役)となりました。
小普請は決まった役がないため収入が低く、宗次郎も経済的には苦しかったものと思われます。
しかし宗次郎は研鑽を重ね、宝暦10年(1760年)に21歳で勘定(かんじょう)に抜擢されました。
勘定とは勘定奉行の配下で、勘定所に勤務します。
【勘定所の役職序列】
勘定奉行-勘定組頭-勘定-支配勘定-支配勘定見習・支配勘定出役
※別に全般の監査担当として、勘定吟味役-勘定吟味方改役が存在。
勘定として職務に精励し、その才覚が認められた宗次郎は、明和6年(1769年)に評定所留役(ひょうじょうしょとめやく)を拝命します。
評定所とは幕府の最高裁判所と政策立案を司る機関で、留役はその書記官として、勘定所から多くの者が出向しました。
留役は知識と経験を積んでいることから、評定所の実務に大きな影響を及ぼしており、宗次郎も大いに腕を振るったことでしょう。
やがて安永5年(1776年)には勘定所へ出戻って勘定組頭(かんじょうくみがしら)に昇進し、実務経験と知識を基に幕府財政と田沼政権を支えました。
