幕府も黙認、江戸時代の寺社はカジノ状態。なぜ江戸の博徒は寺社に集まったのか?【後編】

歴史 好き太郎

前編では、「かぶき者」である旗本奴や町奴にかわって博徒たちが幅を利かせるようになり、しかもそれが農村社会にまで浸透していったさまを解説しました。

江戸時代の寺社は賭博天国。アウトローから博徒へ、江戸の闇社会の実態とは?【前編】

アウトローの系譜は「博徒」へ江戸時代初期のアウトローは「旗本奴」「町奴」が主なもので、彼らは「かぶき者」「男伊達」「侠客」などと呼ばれました。旗本奴・町奴が争うことでいわば対消滅し、さらに…

博打が農村社会に根付いた歴史的背景のひとつに、意外と思われるかも知れませんが寺社との深い関係があります。

寺社の祭礼では芝居や見世物・相撲・露店などとともに、博打が人気を博しました。そんなこともあって祭礼になると博徒が寺社に集まり、賭博に興じていたのです。

こうした慣行を「露天博打」といい、「博打を打たぬ者は、寺の本尊と石地蔵だけ」とも言われたほどでした。

近世の寺社領は治外法権だったので、こうした所業を幕府もほぼ黙認するありさま。寺社での娯楽を禁じるお触れが出されることもなくはなかったのですが、しばらく経つと元通りになったといいます。

阿佐田哲也の『麻雀放浪記』では、僧侶が賭け麻雀に興じたり、寺社の中で博徒が集まって卓を囲む画面がありますが、実は「寺社イコール賭博」という図式はごく自然なものだったのです。

賭博を行う賭場は宿場にも登場し、入場料も徴収されました。とりわけ大きな街道の宿場で栄え、多くの人たちが金を落としたと言います。

このように、江戸時代は実は賭博天国・博打地獄でもあったのです。

2ページ目 一揆では盗賊もごたまぜ

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