幕末の犠牲者…17歳の芸妓「唐人お吉」が国難を救うために背負わされた哀しき運命:2ページ目
2ページ目: 1 2
翌安政2年には養母が病死。きちは15歳で天涯孤独になり、ふたたび芸妓になります。深い悲しみを抱えつつも、気丈に働くきち。玉のような美しさと健気さで、下田の役人の宴席には必ず呼ばれる人気芸妓に成長します。そして一方では、幼なじみの鶴松に恩金の借りを完済。2人は互いの想いを打ち明け、恋仲になりました。
安政3年7月、アメリカ駐日総領事・タウンゼント=ハリスが日米修好通商条約を締結すべく、下田に着任。一介の芸妓には関係がないように思えるこの事が、きちの人生を大きく変えました。
翌安政4年、下田で一番の芸妓だったきちは、17歳にしてアメリカ駐日総領事・タウンゼント=ハリスの相手に抜擢されます。ハリスが用意したのは支度金25両、1年の給金120両の大金。顔なじみの下田の役人たちに「国難を救うと思って、身を捧げてくれ」と頼み込まれ、きちは泣く泣く「参ります・・・」と了承しました。
こうしてきちは、恋人鶴松に別れを告げ、ハリスの待つ米国領事館・玉泉寺に向かったのです。下田から少し離れた柿崎村の玉泉寺は、コウモリやネズミの棲む、それはひどい寺でした。当時は流行歌の替え歌が流行っており、お吉が作ったとされる歌がこちら。
「行こか柿崎 帰ろか下田 思い惑うよ間戸が浜」
間戸が浜とは、柿崎領事館と下田のちょうど中間の地名。決して喜んでハリスの元に行った訳ではないお吉は、領事館へ向かう道中に悲しげにこの歌を歌ったのでした。
【後編】の記事はこちら↓
幕末の犠牲者…17歳の芸妓「唐人お吉」が国難を救うために背負わされた哀しき運命【後編】
前回の記事に引き続き、昭和5年出版の松村春水「実話 唐人お吉」に沿い、「唐人お吉」と呼ばれた、幕末の下田の芸妓で、当時のアメリカ駐日総領事・タウンゼント=ハリスに雇用された、斎藤きちの数奇で哀切な一…
参考文献:村松春水「実話 唐人お吉」国会図書館蔵
ページ: 1 2

