「律令国」という区分
古代律令国家は、日本全土を66国2島に分け、それぞれに国名をつけていました。これを律令国といい、昔の日本の地方行政区分でした。
この区分が使われてきた歴史は長く、飛鳥時代から明治時代初期までの基本的な地理区分の単位でした。
言うまでもなく、現在の行政区分の単位は都道府県であり、律令国の単位には現在は行政区分としての機能は備わっていません。
それらの名称も、今は「旧国」「旧国名」として、単なる地理区分のように使われることもあるという程度です。
この令制国が採用され、制度的にも確実に成立したのは、大宝元年(701年)に制定された大宝律令からだとされています。
よって、律令国の成立時期は早ければ大化元年(645年)、遅ければ大宝元年(701年)となります。
また、これらは一挙に成立したのではなく、段階的な制度変化だった可能性も高いとされています。
筑「前」・筑「後」、「上」野、「下」野の理由
そして本稿のテーマですが、このような律令国の国名には、筑前と筑後(福岡県)、豊前と豊後(福岡県と大分県)、あるいは、上野と下野(群馬県と栃木県)のように、「前後」や「上下」のついた名前が多く存在しますね。これはなぜなのでしょう?