【光る君へ】悲恋の皇女…藤原伊周 嫡男・道雅との恋を引き裂かれた「当子内親王(三条天皇女)」の生涯をたどる

藤原道雅(藤原伊周嫡男)との悲恋が知られる当子内親王(とうし/まさこ)。

三条天皇(居貞親王)と藤原娍子(せいし/すけこ)の第一皇女として生まれた彼女は、どんな生涯をたどったのでしょうか。

斎宮に卜定される

当子内親王は長保3年(1001年)に誕生しました。

同母兄弟には敦明親王(あつあきら。小一条院)・敦儀親王(あつよし。三品式部卿)・敦平親王(あつひら。二品兵部卿)・禔子内親王(ていし/ただこ。藤原教通室)・師明親王(もろあきら。性信入道親王)がいます。

寛弘8年(1011年)に父・三条天皇が即位すると内親王宣下を受けました(それまでは女王)。

長和元年(1012年)に12歳で伊勢の斎宮(さいくう、いつきのみや)に卜定(ぼくじょう)されます。

斎宮とは天皇陛下一代あたり一人の皇女が伊勢の神宮に奉仕する制度で、賀茂斎院と合わせて斎王(さいおう、いつきのきみ)と呼ばれました。

在職中は神に仕えるため、その心身が潔白であらねばならず、結婚はできません。少なからぬ斎宮が生涯を独身を貫いたと言います。

卜定とは占卜(占い)によって定めること。建前上、神意によって選ばれたのでした。

道長と闘う父へ、神からの応援メッセージ?

翌長和2年(1013年)に精進潔斎した(まだ伊勢には下っていない)当子内親王は、当時皇位にあった父の三条天皇へ、託宣(神から託された言葉)という形で応援メッセージを送ります。

「多くの皇女が京都よりほど近い賀茂斎院となるのに、あなたは伊勢へ皇女を送りました。これは志の高いことです。皇位は18年続くでしょう(意訳)」

ほとんどあなたの感想というか希望的観測ですが、難病を患いながら藤原道長の譲位圧力と闘う父を、何とか励ましたかったものと思われます。

翌長和3年(1014年)にいよいよ伊勢へ下向。この見送りの儀式(別れの御櫛)において、天皇陛下も斎宮も振り返ってはならないというしきたりがありました。

しかし三条天皇は娘のけなげさに耐えがたく、つい振り返ってしまったのです。

これが神の怒りを買い、在位が短くなってしまったのでしょうか。

伊勢に下った後も「神宮に怪異はないので、御代は永く続くでしょう(意訳)」と励ましのメッセージ、もとい託宣を送り続けた当子内親王。

しかし願いも虚しく、神意すらものともしない道長によって、三条天皇は譲位させられてしまったのです。

時に長和5年(1016年)1月29日、当子は16歳でした。

2ページ目 引き裂かれた藤原道雅との恋

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