殺生関白との呼び名を持つ豊臣秀次(とよとみ ひでつぐ)。豊臣秀吉の甥であり、後継者として関白の地位にまで上り詰めた秀次でしたが、自らが行ってきた悪行により自身どころか親族もろとも処罰されました。
ただし、秀次の悪行は捏造されたとの見方もあります。
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殺生関白・秀次が行ってきた悪行の数々
秀次は、死罪を言い渡された罪人を切ることを好んでいました。手足を縛りつけた罪人に対して、胴切りを楽しんでいたのだそうです。
「殺生関白行状記」によると、一思いに切ればいいものを、「怖いか、苦しいか」といたぶりながら斬っていたとか。
また、あるときは新しい遊びでも思いついたように、身重の側室を呼び出します。「お腹の子は本当に秀次の子か」と聞き、怯えながらうなずく側室に対して胎児を掴みだしたというエピソードもあります。
これらの悪行が秀吉の耳に入り、秀次は自刃を言い渡されるのです。
秀次が自刃した半月後、39人の秀次の近親者が京都の三条河原で公開処刑されました。秀次の首を目の前に妻子たちが処刑される様子は、見物した者が後悔するほど凄惨だったそうです。