935年勃発説は時代遅れ!?「平将門の乱」が起きた本当の理由と最新の学説を紹介【後編】

歴史 好き太郎

平将門の乱の「第二の局面」

【前編】では、935(承平5)年に勃発したとされている、いわゆる平将門の乱が発生するまでの経緯を見てきました。

935年勃発説は時代遅れ!?「平将門の乱」が起きた本当の理由と最新の学説を紹介【前編】

「平将門の乱」の二つの局面二十年以上前の教科書では、935(承平5)年に平将門の乱が起こったとされていますが、近年ではこの考え方を採らなくなりました。この出来事の実像に関する理解が深まった…

その第一の局面とされる争いは、朝廷に対する「乱」とは言えないことが分かったと思います。

日本史を学習していると、地方の武士はアウトロー(無法者)で、貴族の手に負えない存在だったと説明されがちです。

しかし地方で争乱が起きると武士たちは都に訴え、その裁決を受けて従うことも少なくありませんでした。

現に、平将門も【前編】で説明した一族間の紛争では、朝廷からの召喚に応じて検非違使の尋問も受けています。

武士の世界には原則として自力救済の慣習があったものの、10世紀の段階では、武士に対する朝廷の裁決は有効なものだったことがわかります。

では、彼が国司を襲って新皇を名乗ったとされる第二の局面についてはどうでしょうか。

将門は桓武5世であり、父が鎮守府将軍でもあります。さらに、一族の紛争を実力で勝ち取った名望と実績のおかげで、彼は自力救済の力をもたない武士たちの調停者として頼られる存在となったのでした。

こうした経緯を背景として、いわゆる平将門の乱の第二の局面を招くことになります。

3ページ目 汚職役人から訴えられる

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