時は長徳2年(996年)1月28日。花山天皇の出家からおよそ10年にわたる不遇を乗り越え、藤原為時(紫式部の父)は越前守に任じられました。
越前とは現代の福井県に当たり、守は国司の長官です。よかったよかった。
さて、なぜ為時が越前守に任じられたかと言うと、大陸から渡って来た宋の商人・朱仁聡(しゅ じんそう)の存在があったという説があります。
果たして朱仁聡とは何者なのか、今回はその人物像に迫ってみましょう。
為時との交流は実現しなかった?
朱仁聡は生没年不詳、何なら出身地や出自も詳しいことが分かっていません。
永延元年(987年)ごろからしばしば日本へ渡って来ていたそうです。
長徳元年(995年)9月には林庭幹(りん ていかん。商人仲間?通訳?)ら70名とともに若狭国(福井県西部)へ渡り、のち越前へ移ります。
為時が越前の国守となったのはこの翌年。朝廷では一条天皇が、漢学の素養をもった為時に朱仁聡らと交流させてみたかったからとの説もあるとか。
果たして越前守となった為時と交流があったのかどうか、詳しい記録は残っていません。
一条天皇直々の要望であれば真っ先に実現しそうなのに、時間が経つ内に飽きてしまったのでしょうか。
そもそも、為時が越前守に任じられる3日前、為時は淡路守に任じられています。
現代の兵庫県淡路島に当たるこの地域は、近畿一帯でも特に貧しいことで知られていました。
為時はせっかくの任官に対して不服を訴え、哀れに思った一条天皇は叔父の藤原道長に便宜を図るよう求めています。
「ならば、我が家臣が越前守に任官する予定だったので、それと入れ替えましょう」
これで為時は越前守になったのですが、かわいそうに、その家臣はショック死してしまいました。
だから最初から為時と朱仁聡を交流させたかったというより、「せっかく越前に赴任するなら、宋の商人と交流させたら面白いかもね」程度の話だったのかも知れません。