第二次長州征伐とは
幕末期に行われた第二次長州征伐は、1866年(慶応2年)に江戸幕府と、討幕運動の拠点でもあった長州藩との間で起きた戦いです。
第二次なら当然「第一次」もあるだろうと思われるでしょうが、最初の長州征伐は未発に終わっています。第二次長州征伐によって、幕府と長州藩の全面的な軍事対決となったのです。
今回はその経緯と、「第二次長州征伐で惨敗したことで、幕府は権威が失墜した」という通説の真実について解説します。
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第二次長州征伐は、長州藩が軍拡を進めていることに幕府が脅威を感じ、二度目となる長州派兵に踏み切ったものです。これに、幕府軍は15万の大軍を動員しました。
しかしその始末はご存じの通りで、最新兵器で武装した長州軍に惨敗するという結果になりました。しかも、長州の軍勢はわずか3千5百人だったのです。
さらに、幕府軍の最高指揮官だった徳川家茂が病死したことで、撤退せざるを得なくなりました。
さすがに15万対3千5百の大差があったにもかかわらず惨敗したのですから、幕府の権威が低下しないはずがありません。しかしそれは、決定的なものではありませんでした。
なぜならこの失敗を踏まえ、幕府では急ピッチで改革が進められていったからです。むしろ第二次長州征伐後、幕府の権威は回復基調にあったと言っても過言ではありません。