したたかで狡猾、有能な徳川慶喜。「大政奉還」直後、政争は慶喜に有利に動いていた?【中編】

歴史 好き太郎

追い詰められていた薩摩藩

【前編】の記事はこちら

したたかで狡猾、有能な徳川慶喜。「大政奉還」直後、政争は慶喜に有利に動いていた?【前編】

「大政奉還」のイメージ幕末の歴史をご存知の方なら、徳川慶喜が大政奉還に至るまでのいきさつは説明するまでもないでしょう。[insert_post id=55958][caption …

さて大政奉還が行われた当時、西郷隆盛大久保利通らは何をやっていたのでしょうか。

これについては、「幕府の武力討伐の準備をしていた」雑に説明されることが多いですが、実は大政奉還の前から、徳川慶喜との暗闘政権工作の形で始まっていました。

特に、大久保利通は必死に朝廷工作をはかっていたのですが、そのたびに慶喜の強固な政権基盤によってはじき返されており、ほとんど太刀打ちできていなかったのです。

彼ら薩摩藩の志士たちが武力倒幕の決意を固めたのは、こうした状況を打破するためでもありました。

言うまでもなく、武力面で見ても慶喜の方が数段上なのですが、大久保は、政治工作では勝ち目がないから武力討伐を選択することになったのです。いわばこちらの方が「悪あがき」でした。

そして薩長出兵盟約が結ばれたことで、薩長同盟は正式に軍事同盟となります(のちに安芸藩も加わる)。大久保は、今度は慶喜を逆賊に仕立て上げるべく朝廷工作に奔走しました。

ここで巧みに立ち回ったのが土佐藩です。特に後藤象二郎は幕府と薩長の双方に二股をかけて、有利な方につこうと企んでいました。で、有名な坂本龍馬の『船中八策』を公議政体論にまとめ直した文書を、幕臣を通して慶喜に渡しています。

それに目を通した慶喜の動きは素早く、大政奉還後に公議政体と船中八策を実現することを考えます。大政奉還が行われました。

2ページ目 最後の手段としての王政復古

次のページ

この記事の画像一覧

シェアする

モバイルバージョンを終了