前編では、土佐出身の戦国武将「長曾我部元親(ちょうそかべもとちか)」が、死をも恐れず戦う半農半兵(武装農民)「一領具足」を起用し、土佐の覇者になるまでの話をみていきました。
これぞ戦国時代!信長、秀吉らの思惑に翻弄された四国の覇者・長宗我部元親の人生【前編】
後編では、好機が訪れたとして四国統一に動いた長曾我部元親の顛末ついて紹介します。
信長の死と好機
長曾我部元親は、織田信長から四国統一の許可を出され、邁進していました。しかし、四国統一が目前に迫ったとき、許可を出した張本人・織田信長から邪魔をされてしまいます。これには、長曾我部元親も大激怒。
一方の織田信長は、中国地方を支配する「毛利元就」への対抗戦力として海賊と四国地方の両方を獲得する準備を着々と進めていました。
そのため、もはや2人の対戦は免れないという空気になっていた1582年6月、京都で「本能寺の変」が起こり、織田信長が急死。
負け戦になる可能性も高かった状況のなか、長宗我部元親は命拾いをすることになります。
そして、この死を好機と捉えた長宗我部元親は、このタイミングで四国統一に王手をかけようと乗り出したのです。
激突!四国の覇者を決める戦い
1582年8月28日、長曾我部元親が阿波(現・徳島県)への侵攻を開始し、阿波の支配者である三好氏の総帥「十河存保(そごう まさやす)」が応戦したことで開戦となりました。これが、四国の覇者を決める戦い「中富川の戦い」です。
長宗我部元親の軍勢が約2万3000人に対し、十河存保の勢力は約5000人。最初は撃退に成功していた十河軍でしたが、一領具足を巧みに扱う長曾我部元親とその軍勢の兵力差を覆すことはできませんでした。
この戦いで主要な戦力の殆どを失った十河存保は「勝瑞城(しょうずいじょう)」に籠城しましたが、2週間後には降伏。勝瑞城の明け渡しを条件に免罪され、讃岐(現・香川県)に逃げ延びています。こうして四国の覇者を決める戦いは終結したのでした。
長宗我部元親は、この時に逃した十河存保が自身の破滅を招くことになるとは思ってもいなかったことでしょう。