忠義に厚く、勇猛だけど、頑固で偏屈が玉に瑕……徳川家康の天下獲りを支えた三河武士は、そんな連中の集まりでした。
どこまでも主君を愛するあまり、主君の意に背いてでも忠義を貫く姿は、とっつき難くも愛しさを感じられてなりません。
今回はそんな三河武士の一人、大久保忠教(おおくぼ ただたか。彦左衛門)のエピソードを紹介したいと思います。
長兄・大久保忠世と共に武功を重ねる
大久保忠教は永禄3年(1560年)、大久保忠員の八男として誕生しました。
母親は小坂氏、通称を平助または彦左衛門と言います(以下、彦左衛門)。元服してはじめ大久保忠雄と名乗りますが、故あって大久保忠教と改名しました。
彦左衛門が家康に出仕したのは16歳となった天正3年(1575年)、以来長兄の大久保忠世に従います。
初陣は翌天正4年(1576年)、武田方の守る遠江国乾城の戦いで、初めて首級を得たのでした。
さらに天正9年(1581年)の高天神城攻めでは総大将の岡部長教(元信)を倒す大手柄。
しかし「こんな最前線で戦っている年寄り、大した者でもなかろう」と打ち捨て、大久保家臣の本多主水に首級を譲ってしまいます。彦左衛門はこれを悔やむも、また別の首級を上げてやりました。
天正11年(1583年)の岩尾城攻めにおいても首級を上げ、天正13年(1585年)の信濃国相木でも武功を重ねたそうです。
そんな彦左衛門ですが、天正13年(1585年)8月、真田昌幸によって手痛い敗北を喫することもありました。
真田の篭もる上田城を攻めあぐねて死傷者を重ね、兵を引くなり真田勢が猛然と追撃。
彦左衛門は忠世と二人踏みとどまって奮戦し、首一級を獲たと言います。戦後の論功行賞では、殿軍を務めた彦左衛門の証言が査定を左右したそうです。
こうして彦左衛門は身命を惜しまず武勲を重ね、兄の忠世亡き後は、その嫡男である大久保忠隣に仕えました。