愛する我が子・鶴松を喪ったショックと、茶々(北川景子)を慰めたい一心で朝鮮出兵=明国征伐を強行した豊臣秀吉(ムロツヨシ)。
連戦連勝が伝えられる中、実は苦戦しているという前線情報をつかんだ徳川家康(松本潤)は、切腹をも覚悟で秀吉に渡海を思いとどまるよう諫言しました。
その甲斐あってか一度は「女狐」茶々を遠ざけた秀吉でしたが、彼女が子を孕んだとの報せに狂い、再び招き寄せてしまうようです。
老いてしまった猿に続き、白兎もとい我らが神の君まで、女狐の毒牙にかかってしまうのでしょうか……それでは今週も「どうする家康」第38回放送「唐入り」を振り返っていきましょう!
家康から見た朝鮮出兵……『徳川実紀』の記述
……関白は朝鮮を討んとの思ひ立ありければ。やがて當職を養子秀次にゆづられ。其身は太閤と称せられ。渡海の沙汰專らなれば。 君も文禄元年二月に。東国諸大名の総大将として江戸を立せ給ひ。肥前の名護屋に渡らせ給ふ……此いくさにひまなきほどに。年の矢は射るが如くに馳て文禄も四年に移りぬ。……
※『東照宮御実紀』巻四 天正十九年―慶長元年「秀吉譲関白于秀次尋企外征」「文禄元年家康発江戸赴肥前」
秀吉の野望にしょうがなくつき合って名護屋城へ詰め、何やかんやで矢の如く年月は流れて気づけば文禄4年(1595年)に……そんな認識だったようです。これが家康=徳川家から見た朝鮮出兵の公式見解と言えるでしょう。
じっさい家康たちは朝鮮へ渡っていませんし、今一つ緊張感に欠けるのは無理もありません。
しかし前線では苦しい戦いが続いており、その実情は石田三成(中村七之助)が握りつぶすという残念な状態。
「今まで殿下のなさることに間違いはなかった」
うーん、どうやら今回の三成ガチャはハズレみたいです。そんな人物を重用して政権の舵取りを託している秀吉……いよいよ焼きが回ったのでしょうか。
『徳川実紀』では、こうも書いています。
……(秀吉足利氏衰乱の余をうけ。舊主右府の仇を誅し。西は島津が強悍をしたがへ。東は北條が倨傲を滅し。天下やうやく一統し万民やゝ寝食を安んぜむとするに及び。また遠征を思ひ立私慾を異域に逞せんとするものは。愛子を失ひ悲歎にたえざるよりおこりしなどいへる説々あれども。實は此人百戦百勝の雄略ありといへども。垂拱無為の化を致す徳なく。兵を窮め武を黷(けが)し。終に我邦百万の生霊をして異賊の矢刃になやませ。其はてハ富強の業二世に傳ふるに及ばず。悉く雪と消氷ととけき。彼漢武匈奴を征して国力を虚耗し。隋煬遼左を伐て。終に民疲れ国亡ぶるに至ると同日の談なり。人主つとめて土地を廣め身後の虚名を求めんとして。終には身に益なく国に害を残すもの少なからず。よくよく思ひはかり給ふべき事にこそ。)……
※『東照宮御実紀』巻四 天正十九年―慶長元年「秀吉譲関白于秀次尋企外征」「文禄元年家康発江戸赴肥前」
秀吉は戦国乱世に生まれ、織田信長の仇討ちを果たして天下取りに名乗りを上げました。西は島津を従えて、東の北条は滅ぼして、天下一統の大業を成し遂げます。
これでようやく平和に暮らせると思っていたら、今度は唐入りなどと言い出す始末。
愛する我が子を喪った悲しみで狂ったなどと言われているが、さにあらず。元々秀吉という人は、戦の知恵こそ働くが、世の中を平和に治める人徳はありません。
いたずらに力を誇示して武をけがし、百万にも及ぶ同胞を異国との戦争に苦しめるばかり。
それで結局、せっかくの天下を我が子に伝えられなかった(子の代で滅ぶ憂き目を見た)のです。雪が消え、氷がとけるような豊臣家の有り様は、まるで漢の武帝か隋の煬帝に比せられるでしょう。
君主たる者、いたずらに欲望と名誉を貪れば、かえって国まで損なうことを肝に銘じねばなりません。
……とまぁ当時の家康がそこまで見通していたとは思えませんが、朝鮮出兵が天下一統の英雄・秀吉の晩節を汚し、豊臣家に斜陽を兆したのは間違いないでしょう。