意外?実は鉄砲(火縄銃)の導入に積極的だった武田信玄。しかし……【どうする家康】

武田信玄(演:阿部寛)と言えば精強な騎馬軍団を率いて天下を狙ったものの、鉄砲(火縄銃)など先進的な兵器の導入には消極的だったイメージがあります。

伝統的な戦法にこだわり、それでも数々の合戦で勝利を収めた将器は高く評価されるものの、息子・武田勝頼(演:眞栄田郷敦)の代で滅ぼされてしまいました。

やはり使えるものは何でも使って勝利をもぎとらねば生き抜けないのが乱世の現実。平安・鎌倉期の武士ならいざ知らず、戦国時代の信玄が武士の美学をそこまで追求したとも考えられません。

そこで調べてみると、信玄も火縄銃を積極的に導入していたようで、今回は軍学書『甲陽軍鑑』の一節を紹介したいと思います。

弾薬は一人3発。指示があるまで無駄に撃つな……

……五十人の足軽には永正七年に始て渡る鉄砲を持たせ玉薬一人にみはなしつつあてがひ、いつれも某はなせと申時仕れ、はなしあけてから弓鉄砲を捨かたなをぬきむりにきつてかゝり鉄砲は弓の衆の間にたち矢五ツはなしてから、うちはじめよと……

※『甲陽軍鑑』品第廿八

【意訳】足軽50人に対して、永正7年(1510年)から導入された火縄銃を配備。弾薬は一人あたり3発。弾を無駄にせぬよう、各個人に対して「誰それ、放て!」と命じた時以外は放たぬよう指示。全弾を放ち終えたら鉄砲を置いて抜刀、突撃せよとのこと。鉄砲兵は弓兵の間に配置し、矢が5発射られたタイミングで撃ち始めるように……

これは信玄が北信濃の強豪・村上義清(むらかみ よしきよ)と対決した上田原の合戦(天文17・1548年2月14日)でのことです。

あれ?鉄砲の伝来って天文12年(1543年)と教わりましたが、永承7年(1510年)時点で既に火縄銃が武田家に導入されていたというのは、どういう訳でしょうか。

実は南蛮からではなく、中国大陸や朝鮮半島を経由して青銅製の火縄銃がもたらされていたのです。だから鉄砲ではなく銅砲と言うべきかも知れません。

以降にも、弘治元年(1555年。天文24年)の第二次川中島合戦で鉄砲足軽300人を導入していました。

しかし、文中の「玉薬一人にみはなしつつ(弾薬は一人あたり三放しづつ)」「某はなせと申時仕れ(個別に命じた時以外は自己判断で撃つな)」という表現に、弾薬の慢性的な欠乏が痛感されます。

というのも、実は鉄砲自体の量産には成功していたものの、火薬を作るために必要な硝石の入手が外国からの輸入に依存していたのです。

さらに大陸の明王朝は軍需物資の禁輸政策をとっており、硝石は倭寇による密貿易以外の入手が不可能でした。

こうなると海路を押さえていない信玄は、陸路で高い関税のかけられた、ごく少量の粗悪な弾薬を買わされるよりありません。

そもそも甲斐国は土地がやせて財政が常に厳しく、父・武田信虎(のぶとら)の時代から豊かな領土を求めて戦を繰り返していました。その軍資金を調達するために重税を課し続け、領民たちは生活苦に喘いでいたのです。

とても火縄銃を買いそろえる余裕などなかったため、甲州や信州で産出される名馬を調練して精強な騎馬軍団を編成したのでした。

3ページ目 追い詰められて挙兵した信玄、家康にまでナメられる?

次のページ

この記事の画像一覧

シェアする

モバイルバージョンを終了