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平清盛の権力を頂点まで引き上げた陰謀事件「鹿ヶ谷の陰謀」とは?【前編】

平清盛の権力を頂点まで引き上げた陰謀事件「鹿ヶ谷の陰謀」とは?【前編】:2ページ目

寺を焼いたことが発端

ところが、1176年に滋子が亡くなると次第に両者の関係は悪化していきます。そして翌年の1177年に起きた事件「鹿ケ谷の陰謀」により両者の対立が決定的となりました。

事の発端は、加賀の国事を務めていた藤原師高・師経の兄弟が天台宗の寺である白山寺を焼いてしまったことでした。

これに対して、延暦寺の座主である明雲が激怒。後白河上皇に師高・師経兄弟を処罰するよう迫ります。

しかし、師高・師経兄弟は後白河上皇の重臣である西光の息子であり、また延暦寺と仲の悪い後白河上皇は、言うことを聞きたくない気持ちもあったため何の処分も下しませんでした。

これに怒った延暦寺の僧侶たちは御輿をかついで京に押し寄せ、朝廷に強訴し始めます。

こうなると後白河上皇も延暦寺の要求を飲まざるを得ず、とりあえず師高・師経兄弟の流罪を決定します。

ところが、今度は西光に息子の流罪を解くように懇願され、上皇の気が変わります。周囲の反対を押し切って兄弟の流罪を解き、逆に座主の明雲を処罰したのです。明雲は伊豆への流罪が決定し、捕らえられ、連行されてしまいます。

これだけでももうめちゃくちゃですが、【後編】ではさらに混沌の度合いが増していきます。

後編の記事はこちら

 

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